2020年05月03日「聖霊の導きとキリスト者の覚悟」

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聖霊の導きとキリスト者の覚悟

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
使徒言行録 21章7節~16節

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聖句のアイコン聖書の言葉

わたしたちは、ティルスから航海を続けてプトレマイスに着き、兄弟たちに挨拶して、彼らのところで一日を過ごした。
翌日そこをたってカイサリアに赴き、例の七人の一人である福音宣教者フィリポの家に行き、そこに泊まった。
この人には預言をする四人の未婚の娘がいた。
幾日か滞在していたとき、ユダヤからアガボという預言する者が下って来た。
そして、わたしたちのところに来て、パウロの帯を取り、それで自分の手足を縛って言った。「聖霊がこうお告げになっている。『エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す。』」
わたしたちはこれを聞き、土地の人と一緒になって、エルサレムへは上らないようにと、パウロにしきりに頼んだ。
そのとき、パウロは答えた。「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。」
パウロがわたしたちの勧めを聞き入れようとしないので、わたしたちは、「主の御心が行われますように」と言って、口をつぐんだ。
数日たって、わたしたちは旅の準備をしてエルサレムに上った。
カイサリアの弟子たちも数人同行して、わたしたちがムナソンという人の家に泊まれるように案内してくれた。ムナソンは、キプロス島の出身で、ずっと以前から弟子であった。使徒言行録 21章7節~16節

原稿のアイコンメッセージ

「聖霊の導きとキリスト者の覚悟」使徒言行録21:7~16

今日の御言葉は、パウロの第三伝道旅行の記録の最終回です。エルサレムに向かう最後の中継地点は、カイサリアで、「例の七人の一人である福音宣教者フィリポの家に行き、そこに泊まった(8節)」、と記録されています。そしてこのフィリポは、ステファノ殉教の後、エルサレムから散らされ、サマリアで開拓伝道を始め、その後カイサリアまで行った人物です(使徒8章参照)。この時点では、まだパウロは迫害者であり、この後パウロが回心して、やがて伝道旅行をはじめ、この第三回目の伝道旅行が終わるまで約20年間の年月が経っております。この20年間パウロは地中海世界を飛び回り、フィリポはカイサリアにとどまって伝道を続けていたのです。2人の対照的な20年がすぎて、そして今、ここで両者は相まみえるわけです。ゴールである神の都エルサレムの一歩手前で。大変、感慨深い記事であります。ここで聖書は、あえてフィリポを「福音宣教者フィリポ」と呼びます。この福音宣教者という言葉は、聖書に3回しか見られず、使徒言行録では、ここにしか使われておりません。福音宣教者という言葉で、私たちはまずパウロを思い浮かべます。しかし、聖書的には、一つの土地に腰を下ろして伝道を続けたフィリポもまた福音宣教者、世界中を駆け回り伝道を続けたパウロと比べても、何の遜色もない福音宣教者なのです。伝道者にとって、この世的な評判や、功績のようなものはどうでもよろしい。大切なのは、どれだけ主の御心に忠実に働いたか、その一事です。評価を下すのは人ではなく主なる神です。開拓伝道に召される者もあれば、教会を守る者もある、それが主の御心であれば、福音宣教者であることには何ら変わらないのです。その後の「預言をする四人の娘がいた」、この小さな記事がフィリポの信仰と献身を示しています。幼いころから、父フィリポが、カイサリアで伝道をしている姿を見て育った少女たちは、「この人には預言をする四人の未婚の娘がいた」、と聖書で記録される生き方しかできなかったのです。家族全員で主なる神に仕えていた、これが福音宣教者フィリポのプロフィールです。

さて、そこに、アガボという預言者がユダヤからやってきました(10節)。このアガボという預言者は、もう一回すでに登場して、世界的な大飢饉を予告しました(11:27、28)ここでもアガポは、「パウロが、エルサレムでユダヤ人に、縛られて、異邦人の手に引き渡される」ことを預言しました(11節)。ここでアガボは、聖霊がこうお告げになっている、と聖霊の導きを語っているのみも関わらず、パウロと共にいた伝道者集団もカイサリアの弟子たちも、パウロが「エルサレムへは上らないようにしきりに頼んだ」のです。

ここでもパウロと周りのキリスト者とで聖霊の導きに対する受け取り方が違ったのです。

しかし、パウロが、毅然とした態度で回答した結果(13節)、「わたしたちは、「主の御心が行われますように」と言って、口をつぐんだ(14節)」、とあります。これが大切なキリスト者の姿勢です。間違えてもよいのです。聖霊の導きが示された時、キリスト者の中でも、色々な受け取り方があるのは当然です。しかし、その中で最終的な真理が示された時、「主の御心が行われますように」と主なる神の御手に委ねる、そしてそれ以上は沈黙を守る、これがキリスト者の取るべき姿勢です。神の御心の前には沈黙なのです。私たちが黙っていても、必ず御業は実現するからです。こうして、聖霊の導きであるパウロのエルサレム行きは中断されることなく実現したのです。

本日は「聖霊の導きとキリスト者の覚悟」という説教題が与えられました。ここでは、聖霊の導きとそれに対するパウロの覚悟が表明されているからです。そしてこのパウロの覚悟は、「主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。(13節)」ここに示されています。実は、ここで使われている「縛られる」、この言葉が大切でありまして、立て続けに3度繰り返されております。

 そして、この「縛る」という言葉は、使徒言行録で12回使われているのですが、そのうち11回はパウロに関係して使われているのです。まさにパウロの生き様を示すような言葉です。そして、面白いことに、使徒言行録でこの言葉は、迫害者パウロの登場と同時に出てくるのです。「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き~それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。(9:1、2)」この「男女を問わず縛り上げ」、ここで初めてこの縛る、という言葉が出てくるのです。

「男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行する」これが迫害者パウロの使命でした。

それが今逆転したのです。男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行した男が、今「エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、覚悟している」このように明言するのです。

 さらにこの「縛る」という言葉は、少し前に申し上げましたように、パウロの告別説教の中で使われています。「そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。(20:22)」この「“霊”に促されて」の「促されて」これが「縛る」という言葉です。パウロは、聖霊に縛られて、エルサレムに行くのです。それは、過去自分が縛ったキリスト者の立場になって、さらに過去自分が殺したステファノと共に殺されることまで覚悟して。これが聖霊の導きとキリスト者の覚悟です。

 そして、パウロは死の直前に、最終的にこの覚悟に対する回答を見出しております。

 「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。(Ⅱテモテ2:9)」ここで、「つながれています」、「つながれていません」、と繰り返されている言葉が、「縛る」と同じ言葉です。「私は縛られているが、神の言葉は縛られていない」、これが死を直前に、この愚直な伝道者に与えられた真理です。過去迫害者で、「キリスト者とみるや男女を問わず縛り上げていた男」が、伝道者になった時、反対に縛られて、最後には縛られたまま死んでいくのです。

「終わり良ければ総て良し」とこの世は言います。しかし、この伝道者の終わりを見ていただきたい。何とも惨めな最期ではありませんか。「それで尚、神の言葉はつながれていない、神の言葉は自由だ」、ここにだけパウロの希望があったのです。今、病に脅かされて、束縛されています私たちに、これほど響く言葉がありましょうか。このような状態におきましても神の言葉は縛られていない。5月のこの爽やかな風のように自由に世界中を飛び回っているのです(イザヤ55:8~11)。「主の御心が行われますように」