2021年05月02日「信仰義認と約束」

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聖句のアイコン聖書の言葉

13節 神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。
14節 律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。
15節 実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。
16節「従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。」
17節 わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。
ローマの信徒への手紙 4章13節~17節

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説教の要約 「信仰義認と約束」ローマ信徒への手紙4:13~17

ローマ書の4章は、最後まで旧約聖書からアブラハムの生涯が描かれながら、信仰義認が実証されていきますが、本日の箇所からは、その信仰義認によって与えられる約束に焦点が当てられていきます。「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。(13節)」とまずパウロが言いますように、神様の約束は、律法ではなく、信仰義認に基づくものであることが改めて確認されます。それに加えて今回パウロは、この信仰義認の真理を逆説的に説明することでさらに説得力を与えます。「律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。(14節)」この律法に頼る者というのは、律法が救いの根拠である、と福音を行いにすり替えようとする律法主義者です。そのユダヤ主義者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになる、とこのようにパウロは言うのです。その通りでありましょう。実は、面白いことに、ここで聖書的に非常に大切な言葉の対義語が繰り返されているのです。一つは、「信仰はもはや無意味であり」、この「無意味」という言葉です。この言葉は、「聖霊に満たされる」、或いは「喜びに満たされる」、と使われるこの「満たされる」という言葉の対義語です。信仰に満たされるのと正反対、それが律法に頼る者が世界を受け継ぐという事態である、というわけです。行いで救いを求める場合、信仰など不要であるからです。

 もう一つは、約束は廃止されたことになる、この「廃止する」、という言葉です。これは、聖書の最初の言葉であります「初めに、神は天地を創造された。(創世記1:1)」この「創造する」という言葉の対義語です。聖書におきまして神の創造のみを示すヘブライ語の「バーラー」の対義語、それが本日の箇所の「廃止する」、という言葉です。ですから、ここで約束は廃止されたことになる、と聖書が言います時、逆説的に真理を導き出してもいるのです。そもそも、神の創造を人が滅ぼすなど出来ないからです。天地万物も契約も約束も神が創造された以上、人間が壊すことなどできない。つまり、約束が廃止されること自体あり得ないのです。そうである以上、律法に頼る者が世界を受け継ぐこともあり得ないのです。世界を受け継ぐのは、信仰義認の共同体以外ではないのです。

そのうえで、「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ(17節)」、とこのように、この信仰の共同体の先頭にいるアブラハムの信仰の性質が示されています。ここでアブラハムが神様をどのように信じたかが、2つの面で簡潔にまとめられます。

 一つは、死者に命を与える神であると信じた、そしてもう一つは、存在していないものを呼び出して存在させる神であると信じた、この二つです。これがアブラハムの信仰であったのです。むしろ、信仰の土台は、つまりこの二つです。死者に命を与える神、これは死者の復活です。そして、存在していないものを呼び出して存在させる神、これは天地万物の創造です。死者の復活の神、天地創造の神、この2つを信じる信仰が与えられているから、神の約束を信じることが出来るのです。

聖書は、アブラハムの信仰の強弱には興味を示しません。信仰が強いとか弱いとか、それはたいした問題ではないのです。大切なのは、その信仰が、全能の神様をそのまま全能者とみているかいないか、これです。幼子はすぐに泣きます。駄々をこねます。しかし、完全に父母を信じ切っています。むしろ、お父ちゃんがいなければ生きていけない、この完全な信頼それが幼子です。聖書信仰とは、この幼子のような信仰であります。弱くてもいい、お利口さんでなくてもいい、べそをかいても結構、ただ父なる神に全てを委ねる、お父ちゃんがいなければ生きていけない、この完全な信頼です。そして、これが信仰によって義と認められた者の、神の約束に対する立場なのです。

 本日は、信仰義認と約束という説教題が与えられました。このことについて二つ確認します。

まず、神の約束についてです。このローマ書で本日の御言葉から「約束」という言葉が急に現れ4章終わりまで何度も繰り返され、ただならぬ存在感を放っております。実は、新約聖書にこの言葉が現れた場合、この約束の担い手は、必ず神様なのです。そして、その受取人が信仰者であり、その筆頭がアブラハムである、ということなのです。しかし、面白いことに、旧約聖書の原文でありますヘブライ語に「約束」という言葉はありません。普通に「言葉」と訳されている単語を文脈によって「約束」と訳し変えているだけなのです。ですから、もともと旧約ヘブライ語は神の約束という概念を知らないのです。神の言葉は約束するまでもなく、実現する、それが旧約聖書の立場だからです(イザヤ55:8~11)。つまり、神の約束というのは、ただ信仰だけで受け取るものである、ということなのです。

 そして、この信仰に立って、2つ目、その神の約束が、世界を受け継がせること、この壮大なものであるということなのです。本日の箇所では、世界を受け継ぐという言葉が、実に三度も繰り返されて、神の約束として強調されております。これは、勿論地上的に世界を征服する、ということではありません。やがて来るキリストの御国の世継ぎとされる気の遠くなる壮大な約束です。

 信仰義認とは、簡潔に言えばキリストを信じる信仰によって義と認められることで、神の法廷での無罪宣告に他なりません。しかし、それだけではないのです。信仰義認というのはそのようなこの世の論理の中に閉じ込められるような冷たくちっぽけなものではない。信仰によって義と認められた以上、神の子とされ、永遠の命が約束され、それどころか神の国のあらゆる特権と富とが約束されているのです。恵みがまるで宇宙のように膨張し続けるのです。それが、世界を受け継がせる、この言葉に要約されているのです。ローマ書は、すでに3章で、その中心的真理であります信仰義認の真理が示されました。しかし、実はそこからが重要なのです。信仰義認の真理から流れ出る恩恵と愛とが所狭しと陳列されているからです。ローマ書は神の愛のデパートなのです。その神の恩恵と愛に関しては、今まだプロローグ部分、玄関口でしかないのです。ここにもローマ書の魅力があるのです。

 加えまして、この世界を受け継がせることを約束された、この受け継がせる、という言葉、これは私たち人間が自分たちの意志や決意で受け継ぐ、という意味では使われていません。そうではなくて、人間の意志とは無関係に下される神の決定なのです。ですから、「世界を受け継がせることを約束された」、これは聖書的には、「世界を受け継がせることを命じられた」、ということです。 神様は、その素晴らしいご自身の御国を、全ての財産を、そして永久の命を「受けよ」と命じられているのです。言葉に詰まる恩恵ではありませんか。どうして、私のような愚かな罪人が、そのようなものをいただけましょうか、と額ずくのが精一杯の私たちです。しかし、その私に恵みの世継ぎが命じられるのです、「受けよ」と。そして、これが確かに真実だと示されたのが、キリストの十字架ではありませんか。神の御子主イエスが十字架で死なれるほどに、汚れた私を愛してくださった、そうである以上、神様が下さらないものは、もはや何も残っていないのです。ここに神の恩恵の全てがあるからです。

自分の愚かさを嘆いたり、救いに不安を感じる時、実は、私たちはまだキリストの愛をよくわかっていないのです。

主なる神は、罪人であるこの私に、救われよ、神の国を受けよ、と命じてくださる方だからです。