2021年04月25日「義認の実証Ⅱ契約の原点」
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義認の実証Ⅱ契約の原点
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- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
ローマの信徒への手紙 4章9節~12節
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聖書の言葉
9節 では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。
10節 どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。
11節 アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。
12節 更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。
ローマの信徒への手紙 4章9節~12節
メッセージ
説教の要約「義認の実証Ⅱ契約の原点」ローマ信徒への手紙4:9~12
本日の箇所でパウロは、「では、この幸いは」、と始めます。「この幸い」というのは、先週の御言葉の最後にダビデが謳った幸いのことであり(7、8節)、パウロは、信仰義認から溢れ出るあらゆる祝福や喜びをひっくるめて、この幸いという言葉で要約しているのです。
しかし、パウロはその上で、「この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか(9節)」、とこのように議論を発展させるのです。それは、先週の御言葉で、信仰義認を証言したアブラハムとダビデは、確かに不信心な者として、証言台に立ったわけですが、忘れてはならないのは、二人とも割礼を受けていたという事実なのです。その場合、信仰義認の果実として、罪人の生涯に約束される「この幸い」は「割礼を受けた者だけに与えられる」、と理解されても仕方がないのであります。
それに対してパウロは、「わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです(9節)」と再度聖書の御言葉を根拠に回答を始めます。これは先週の箇所でも引用された、創世記15章にありますアブラハムによって信仰義認を示す決定的な御言葉で、今回はこの同じ御言葉が、割礼と信仰義認との関係を明確にするために引用され、「どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。(10節)」、とこのように問いかけると同時に、事実に基づく真理を引き出すのです。これは、簡単に申し上げますと、「アブラハムの信仰が義と認められた」という創世記15章の時点でアブラハムは割礼を受けていたかいないかを検証していて、実はこの時点ではまだアブラハムは割礼を受けていなかったのです。この時アブラハムは75歳を少し超えたあたりで、割礼を受けたのはここから20年以上後のことであったのです。この後17章でアブラハムが99歳になった時に、この割礼を受ける場面が記録されています(創世記17:1~14参照)。
パウロは、聖書から時系列的に事実を導き出して、アブラハムの信仰義認が、「割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです」、と御言葉から証明しているわけなのです。非常に強烈な説得力です。しかし、それだけではありません。「アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。(11節)」つまり、割礼とは、信仰によって義とされた印である、ということです。これが割礼の役割なのです。割礼の切り傷が罪人を救うのではなくて、ただ信仰のみである、ということです。ここで大切なのは、「こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり」、と御言葉が言うところであります。この「割礼のない」、というのは「無割礼」と訳せる言葉であり、そのまま異邦人を示す言葉です。つまり、「割礼のないままに信じるすべての人の父となり」、これはアブラハムが、全ての異邦人信仰者の父である、ということなのです。それは、アブラハムが無割礼の時、すなわち異邦人の時に信仰によって義と認められたことが事実だからです。
シュラッターという有名な聖書学者が、極めて聖書的な立場からアブラハムをこのように呼びます。「ただ信仰のみによって義を見出した最初の異邦人・・・。」その通りでありましょう。彼は75歳まで偶像崇拝の家で歩み、異教徒、異邦人として生活していたのです。しかし、その不信心な男に、ただ神様の一方的恩恵によって召命が与えられ、そこから信仰の歩みが始まりました。
ですから、割礼を受けるまでの20年間は、言ってみれば求道者としての歩みでありましょう。
ユダヤ人がわが父と敬い、異邦人とは何の縁もゆかりもないと思って疑わなかったアブラハムこそ、その原点は無割礼の異邦人であり、異邦人が神の民にされる恩恵の幕開けに他ならないのです。 パウロは、最後にこの真理をさらに掘り下げます。「更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。(12節)」ここでパウロが強調しているのは信仰です。
信仰が、割礼の民、そして無割礼、すなわち異邦人を結び付けて、神の民を形成する、それを言っているのです。信仰義認というのは、全世界に普くおびただしい信徒の群れとなる神の民を形成する原理であり力である、ということなのです。そして、その信仰によって義と認められる、その契約のしるしが旧約では割礼であり、新約時代に入ってそれが洗礼に代えられたのです。
大切なのは、旧約の割礼であっても、新約の洗礼であっても、それは神の契約のしるしであり、それ自体に人を救う機能はないということなのです。その源泉にある神の契約にこそ罪人の救いがあるのです。神の契約とは、滅ぶべき罪人を救い出すために、神様の一方的なへりくだりと恩恵によって与えられた救いの約束で、それはあがない主であります主イエスキリストの十字架によって実現した契約であり(ウエストミンスター小教理問答-問20参照)、その十字架によって救われた印が洗礼なのです。人を救うのは、十字架の主イエスキリストだけであります。ですから、私たちの与えられた洗礼は、この十字架のしるしであり、十字架のイエスキリストの割礼と言えましょう。
パウロは、割礼問題においてローマ書と双璧を成すガラテヤ書のエピローグで、切り傷に過ぎない割礼の無意味さを明確にした後で「わたしは、イエスの焼き印を身に受けている」とさえ言っています。 「これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。(ガラテヤ6:17)」この「イエスの焼き印」とは、本質的には洗礼であり、比ゆ的には福音宣教中の迫害によって与えられた体中の傷を指しているのでありましょう。この伝道者は体中傷だらけで、古傷が癒えずに化膿しているようなところもあったのでしょう。東京オリンピック開催の是非でまた揉めているようでありますが、オリンピック発祥の地ギリシアは、人間の肉体美を謳歌することで神々を賛美する国でありました。丸裸になって、強靭な肉体をさらして走り回る、力比べをする、これがヘレニズム時代において最高に魅力的な姿であったのです。ギリシア神話の神々の姿は、まさにこの肉体美そのもので、宗教的な面まで影響されていたことが裏付けられます。
その時代に、イエスの焼き印を身に受けている伝道者は、人々の目にどのように映ったでしょうか。宗教的な見栄えなど全くない、何ともみすぼらしい不格好な男くらいでありましょうか。
しかし、それがイエスの焼き印なのです。この世的に言えば洗礼とは、何ともみすぼらしい不格好なしるし、それ以上ではないのです。誇るどころか、時には隠したくなる、それが私たちに与えられたイエスの焼き印ではありませんか。キリスト者であることを恥じなかったことが一度もない信徒はどれだけおられるのでしょうか。私たちは信仰義認と謳いながら、真に不信心な者でしかないのです。
しかし、それでも尚、神の契約にこそ、罪人を救う全ての根拠があるがゆえに、私たちの救いは揺るがないのです。私たちの救いの原点が神様の契約にあると同時に、私たちの救いの終点までその神様がその契約を忘れることなく導いてくださるからです。
実に、罪人の救いは、最初から最後まで神の契約にあるのです。
「わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。(12節)」この「信仰の模範に従う人々」、これは、そのまま福音の宣教の世界におきまして、地の果てで信仰を与えられた私たちであります。
この「信仰の模範」、の「模範」という言葉は、もともと「足跡」、という意味の言葉です。「従う」、こちらの方は軍隊が隊列を作って進行する姿を現す言葉です。隊列を乱すことなく一致して前進する、そう言う意味です。
しかし、私たちの信仰の歩みに、そのような足跡が残っていますでしょうか。
いいえ、あっちに行ったりこっちに行ったり、脱線してみたり、足跡どころか、膝や手のひら、或いは尻もちの方が多いのではありませんか。しかし、その足跡さえ、最後まで主イエスが踏みしめてくださるのです。
「足跡」という詩をご存知の方もおられるでしょうか。マーガレット・パワーズさんというカナダ在住のキリスト者が作った詩です。この詩の主人公は、ずっと主イエスと自分の2つの足跡が続いていたのに、その人生でいちばんつらく、悲しいときに、そこには一つのあしあとしかなかったのを嘆き、「どうして、一番主イエスを必要としたときに、主イエスが私を捨てられたのか、私にはわかりません」、と主イエスに問いかけました。すると主イエスは答えられました。
「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。
あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」
神の契約と私たちの生涯が美しく謳われています。
私たちはなんと疑い深く怠慢なのでしょうか。
主イエスはなんと真実で憐れみ深いのでしょうか。
信仰義認が覆らないのは、ただこの主の憐れみと愛が変わらないからなのです。
恵みの契約の原点は、この主の憐れみと愛であります。
私たちはまさに、その契約の恵み溢れる御言葉で今日この礼拝に招かれました。
「わたしに聞け、ヤコブの家よ、イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。(イザヤ書46:3、4)」