2021年04月18日「義認の実証-Ⅰ神が義と認めた」

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義認の実証-Ⅰ神が義と認めた

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 4章1節~8節

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1節「では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。」
2節「もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。」
3節「聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。」
4節「ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。」
5節「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」
6節「同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。」
7節「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。」
8節「主から罪があると見なされない人は、幸いである。」
ローマの信徒への手紙 4章1節~8節

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説教の要約「義認の実証-Ⅰ神が義と認めた」ローマ信徒への手紙4:1~8

本日から始まります4章は、3章までで示された信仰義認の真理を証明する役割を持っていて、それは、信仰の父と呼ばれたアブラハムによって実証され、その方法として、先週のテーマでありました「行いの法則」と「信仰の法則」、この2つの法則が繰り返し使われることになります。

まずパウロは、「信仰の法則」をアブラハムの生涯に適用した回答を旧約聖書から導き出します。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた(3節=創世記15:6)」とこのように、聖書から実証するわけです。続けてパウロは、この二つの法則を使いながら、さらに義認について論証していきます。まず、「ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。(4節)」これが「行いの法則」と義認の関係です。ここで言われています働く者、これは私たち人間です。そして報酬がそのまま義認を示しています。つまり「行いの法則」によれば義認というのは、恵みでも何でもないのです。むしろ、その行いが額面通り評価されて、当然いただける報酬である、というわけです。この当然支払われるべきもの、と訳されている言葉は、通常「負債」或いは「借金」と訳される言葉です。つまり、「行いの法則」に立つ場合、義認という報酬は、むしろ神の方が罪人に返済しなければならない負債である、とここまで行きつくのです。つまり、これは取引なのです。「行いの法則」の場合、信仰はつまり神との取引に他ならないのです。私はこれだけやりました。当然それに見合うだけいただけますよね、これが「行いの法則」における信仰なのです。

次に正反対の姿が「信仰の法則」によって示されます。「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。(5節)」これが「信仰の法則」と義認との関係です。大切なのは、そもそも義認とは、正しい人を義とするのではない、ということです。

主なる神様は、不信心な者を義とされる方であって、最初から私たち罪人は、そこにしか望みはないのです。ですから何よりも大切なのは、主なる神様が、不信心な者を義とされる方であることを信じることです。そして、その場合、働きがなくても、その信仰が義と認められます、このように聖書は約束しているのです。義認に関しては、働きはいらないのです。ただ、不信心な者を義とされる方を信じる、これだけで義と認められる、だから恵みなのです。そしてこれが「信仰の法則」なのです。

その上でアブラハムに加えて、ダビデによる義認の実証が行われます。「同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。(6節)」パウロは、急にここでダビデを登場させて、そうかと思うと、また次週の聖書個所の9節からはアブラハムに話を戻します。それは、「真実は二人の証人によって支持されなければならない」これが、神の掟として御言葉でも義務付けられていたからです。ですからパウロは、義認を正しい手続きで実証するために、アブラハムに加えてダビデを証人として立てているわけなのです。ユダヤ人にとって、アブラハムが信仰の父でありましたら、ダビデは、メシアの原型でありました。ですから、これ以上ない証人がここで立てられたわけです。そのダビデが証人として立てられて信仰義認を証言します。しかし、ここには、力強い王様のダビデはおりません。「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。主から罪があると見なされない人は、幸いである。(7、8節)」、と何とも惨めな一人の罪人としてダビデが証言するわけです。これは詩編32編からの引用でありまして、悔い改めの詩編として有名なあの詩編51編と同じく、ダビデが彼の忠実な家来であるウリアの妻バトシェバを奪った罪が発覚した時に謳ったものである、と言われています。取り返しのつかない大罪が公にされてしまった時、ただ嘆いて悔い改めるしかなかったダビデが詠んだ詩がこれなのです。しかし、主から罪があると見なされない人は、幸いである、とダビデが謳いますようにその悪者が赦されたのです・・・。

まさにこれこそが、不信心な者を義とされる方を信じることではありませんか。ダビデは今、不信心な者として、証言台に立ち、信仰義認を証言しているわけです。このダビデにも、「信仰の法則」が適用されて、これ以上ない信仰義認の実証とされたのです。ダビデは、幸いである、と繰り返します。この幸いこそが「信仰の法則」によって与えられる全き自由です。

本日の御言葉から大切な真理が二つ確認できます。

一つ目は、義認の実証についてです。パウロは、アブラハムとダビデという二人の証人を立てて、義認を実証しました。大切なのは、真っ先にパウロが、「先祖アブラハムは何を得たか(2節)」、と信仰の父と敬われるアブラハムの全生涯を総括した時に、アブラハムが何をやったかではなくて、神様に対してどう生きたかに興味を示しているところです。ダビデもそうです。彼の王としての実績や武勇伝などには興味を示さず、ダビデが悔い改めたその生き方だけにスポットを当てています。

 信仰者の生涯は、何をやったかではなくてどう生きたかなのです。私たちも功績のようなものなど全くいらないのです。大切なのは、キリストと共に生きたかどうか、それだけです(Ⅱコリ13:5参照)。

 キリスト者である以上、人生の途中で、或いは生涯を終える時、結局私の生涯は何だったのか、と悔やむ必要など全くありません。ましてや金字塔など不要なのです。大切なのは、死の床にあるまで、「今信仰を持って生きているかどうか」、これだけです。その時、私たち信仰者一人一人の生涯が義認の実証として用いられるのです。どのような恥の多い生涯でありましても、いかに多くの罪を抱えておりましても、その全てがキリストによって帳消しにされ、アブラハム、ダビデと共に、義認を実証するために用いられるのです。私たちもまた不信心な者として人生という証言台に立ち、信仰義認を証言しているのです。一人のキリスト者生涯は、必ず信仰義認を実証するのです。

二つ目、そしてその義認を実証できる根拠は、神が認めたということなのです。先週から申し上げてきましたように。本日の御言葉は、「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」、この認められた、この言葉がキーワードです。他ならぬ神が、義と認めてくださるのです。この言葉は、本日の御言葉の最後にも繰り返されます。「主から罪があると見なされない人は、幸いである、(8節)」この見なされない、この言葉です。この言葉は、もともと数える、計算する、という意味を持つ言葉です。私たちは、非常に多くの罪を犯し歩んでいます。罪を犯さない日などたった一日もありません。しかしその多くの罪を神は数えられないということなのです。ところが、驚くべきことに義の方は数えてくださる。しかも、私たちは何一つまともな義などない罪人のはずです。つまり、非常に多くの罪は数えず、ありもしない義を数えてくださる、これが神が認めてくださる、という事態、これが信仰義認なのです。それは、何の罪もない栄光の神の御子が十字架で殺され、私たちの義を勝ち取ってくださり、このキリストの義によって罪にまみれた私たちが無罪とされたからです。それどころか、キリストの義が私の義としてカウントされるからです。その時、天と地がひっくり返るかのように、罪人が義人へと逆転したのです。しかもそれは、神の決定なのです。私たちがどのように不安に思おうが、疑い迷うことがあろうが、神の決定であるがゆえに、私たちの義認は覆らないのです。これを幸いと言わないでなんと申し上げましょうか。