2021年04月11日「信仰の法則」

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27節「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。」
28節「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」
29節「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。」
30節「実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。」
31節「それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」
ローマの信徒への手紙 3章27節~31節

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説教の要約 「信仰の法則」ローマ信徒への手紙3:27~31

本日の御言葉は、前回学びましたローマ書の中心部分の3:21~26で信仰義認の真理が示されたうえでの、大切な追加部分と言えます。 ここでパウロは、まず「では、人の誇りはどこにあるのか(27節)」、とこのように始めます。最後にわかりますが、実は、この誇りという言葉が、本日の御言葉をさらに深く理解するうえで大切になってきます。そして、それが取り除かれた根拠として、「行いの法則」と「信仰の法則」という二つに法則が用意され、後者に軍配が上がります。その理由が「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。(28節)」と再度信仰義認の定式が示され説明されます。続けて、信仰義認の追加項目として、信仰義認の本来の姿が確認されます。「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。(29節)」これです。もし「ユダヤ人だけの神」であるならば、その神は唯一ではありません。その場合、勝手に神をユダヤ民族の枠に閉じ込め、それぞれの国にそれぞれの神がいる、と理解されても仕方がありません。ユダヤ人の神は、異邦人の神でもあるから、神は唯一なのです。その唯一の神が、天地万物を創造され、今も、そして永久までも全世界を支配しておられるからです。さらに神が唯一であるがゆえに、全ての者が信仰義認の対象であることが明らかにされます。「実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。(30節)」、このように、神が唯一であることは、全人類の義認の根拠になっていて、神の普遍性がそのまま信仰義認の普遍性になることが、実に見事に証明されているのです。

続いて本日の御言葉の結論が示されます。「それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。(31節)」ここで、パウロは、「それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか」、とこのように問いかけますが、これは、そのままパウロに向けられた批判であったと思われます。パウロが、信仰義認を語り続けたからです。信仰義認を謳うお前たちは、律法をコケにしている、律法を無視した異端者だ、快楽主義者だ、とこのようにパウロたちは、律法主義者たちから痛くもない腹を探られ続けてきたのです。

しかし、それに対してパウロは、信仰義認とは、律法を無にするのではなく、むしろ、律法を確立するのだ、とこのように言って一歩も譲りません。そして、これには大切な理由があります。

確かに信仰のみによって義とされる場合、もはや律法の束縛から解放されて、自由な者として歩むばかりか、永遠の命まで約束されています。では、私たちが律法から解放されて自由な者とされたのは、どうしてでしょうか。それは主イエス様が、十字架で私たちの罪の負債を帳消しにしてくださったからです。このキリストの贖いによって私たちは律法から解放され正しいものとされたのです。

ですから、もし私たちが律法を無にするのであれば、それはそのまま十字架を無にすることになります。つまり言い換えますと、信仰者にとって律法とは、キリストの十字架なのです。キリストが十字架で律法を完成してくださったので、私たちは十字架の主イエスを仰ぎ、信じることで、あたかも私たち自身が律法を実現したかのように見なされるからです。

主イエスご自身が、「私は律法や預言者を完成するために来た(マタイ5:17、18)」、と言われていた通りです。それが十字架によって実現し、この十字架の主を仰ぎ見て信じる、これが信仰義認なのです。ですから信仰義認の背景にはキリストの十字架が常に立っているのです。

 先週はイースター礼拝でキリストの復活をお祝いいたしました。しかし、間違えてはならないのは、主イエスが復活して「めでたしめでたし」で十字架がチャラになったわけではないということです。

神の御子主イエスが十字架についてくださった、だから私たちは罪赦され、神の子に数えられ、永遠の命と天国のあらゆる祝福が約束されているのです。十字架は、世の終わりまで、主イエスキリストの贖いを示し、私たち罪人の無罪と救いと命を約束しながら私たちの前に前に立っているのです。この十字架の陰に立たされている状態こそ信仰義認なのです。

本日は、「信仰の法則」という説教題が与えられました。そしてその反対の立場として、「行いの法則」、これが用意されました。最後に、この2つの法則について簡単に確認して終わります。

 大切なのは、両者の視点がそれぞれ何に注がれるかです。「行いの法則」の視点は自分自身と他の人に向けられます。自分が何をやったか、あの人が何をやったか。これが「行いの法則」です。

しかし「信仰の法則」はキリストに目を注ぐのです。主イエスが何をしてくださったか、これが「信仰の法則」です。ですから、当然「行いの法則」は自分の行いが救いに関わってきます。或いは、周りの人と比較して、救いを相対評価に置き換えます。他にもいっぱい悪い奴はいるじゃないか、あの人よりゃましだ、とこのように・・・。その時必要なものは、何でしょうか。愛でしょうか。勇気でしょうか。いりません、そんなもの。必要なのは誇りです。その場合、何でもいいから誇るものがあれば安心なのです。これが私たち罪人の姿ではありませんか。しかし、「信仰の法則」は主イエスに目を向けて、他者の粗探しに興味を示しません。もはや、私自身の粗探しさえいたしません。赦されているからです。粗探しや自己嫌悪が悔い改めに変わり、キリストに向かいます。なんという心地の良い自由でありましょう。その場合、誇りは何でしょうか。そうです。キリストです。十字架のキリストです。

この「誇る」、この言葉は、パウロが頻繁に使う非常にパウロ臭い言葉です。(新約聖書中、この言葉の語群60回のうち実にパウロが54回使っています。)その通り、パウロほど十字架の主を誇り、キリストを自慢した信仰者はいないのではないでしょうか。しかし、それは、パウロが若かりし頃「行いの法則」に生きていたからです。キリスト者を迫害していた頃のパウロは、「行いの法則」の権化でありました。そのパウロがダマスコ途上で復活の主に見え、「行いの法則」から、「信仰の法則」に生きる者に変えられたのです。つまり、「行いの法則」と「信仰の法則」とは、そのままパウロの人生のそのものであり、彼の悔い改めのバックボーンと言えるのです。パウロは生涯この悔い改めに生きたのです。

私たちも同じではありませんか。今日私のダマスコ途上を思い出していただきたい。キリストに出会う前は、自分が何をしたか、あの人が何をしたか、そればかり何時も気にしていた。比較していた。「行いの法則」に操られていた。その私が私のダマスコ途上でキリストに見いだされた時、「信仰の法則」に生きることが許された。 本当の自由を知り、その自由に生きる者とされたのです。

 パウロがコリント信徒に残した言葉は、この私たちのダマスコ途上を思い起こさせます。

 「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。~「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。(Ⅰコリ1:26~31)」・・・「誇る者は主を誇れ」これこそが信仰の法則であります。共に主を仰ぎ、信仰の旅を続けようではありませんか。