2021年03月28日「信仰義認~十字架の言葉~」

問い合わせ

日本キリスト改革派 高島平キリスト教会のホームページへ戻る

Youtube動画のアイコンYoutube動画

Youtubeで直接視聴する

聖句のアイコン聖書の言葉

21節「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。」
22節「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」
23節「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、」
24節「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」
25節「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」
26節「このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」
ローマの信徒への手紙 3章21節~26節

原稿のアイコンメッセージ

「信仰義認~十字架の言葉~」 ローマ書3:21~26

先週も申し上げましたように、本日のこの箇所は、信仰義認の真理を謳う珠玉の御言葉と言えまして、ローマ書だけではなく聖書全体の中でもとりわけ強烈なインパクトを与え、輝きを放つ御言葉であります。タイミングよくこの受難週に、まさに「十字架の言葉」が与えられたわけです。

ここでは、「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。(21節)」この宣言をもって、先週の箇所まで延々と続けられて来た罪の議論に終止符が打たれ、続けてこの律法と預言者によって立証されて示された「神の義」とイエスキリストとの関係が示されます。「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。(22節)」この短い一節に、イエスキリストと神の義との関係について三つのことが簡潔に示され、或いは約束されています。

 一つ目は、「神の義は、イエス・キリストを信じることにより」、すなわち信仰によって与えられる、という真理、つまりそのまま信仰義認です。そして二つ目は、「信じる者すべてに与えられる」、ということ、信仰者であるなら一人も漏れずに神の義をいただくことが出来るということで、「義認の完全性」です。さらに、三つ目は、「そこには何の差別もありません」、ということで、国籍や身分や性別、そのほか私たちあらゆる人間的要素が差別の対象にならない、すなわち、「義認の平等性」と言えましょう。そして、この最後のものは、次の節でさらに説明されます「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、(23節)」この平等であります。そして実にこれは、先週まで続けられてきた罪の議論で最終的に出された「正しい者はいない、一人もいない」、この平等と同じです。これが旧約聖書で示されてきた私たち罪人の平等です。非常に消極的で極めて惨めな平等であります。

しかし、実にもう一つの平等があるのです。それが、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。(24節)」これです。確かに私たちは「正しい者はいない、一人もいない」、という点で平等です。しかし、それ以上に「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」こちらで平等なのです。「キリスト・イエスによる贖い」によって、全ての者が等しく、しかも無償で義とされる、この義認という名の平等なのです。これは、積極的、しかも栄光における平等であります。言い換えれば、前者は律法における平等、或いは旧約の平等、そして後者は福音における平等、新約の平等と言えましょう。私たちは、罪人である、という点で平等であるのにも関わらず、無罪が宣告される、という点においても全く平等なのです。

それにもましてここで大切なのは、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」この約束の偉大さです。この贖い、という言葉は、身代金を払って奴隷を自由にする行為から生まれた言葉でありまして、釈放或いは解放とも訳せます。このキリスト・イエスによる贖い、これが私たち罪人の身代金となるわけですから、無償で義とされる、という事態が起こるのです。「タダほど高いものはない」、と昔から言われます。しかし、これほど高いタダはないのです。

神の御子の贖い、それは世界中の富や財産をかき集めても、世界がひっくり返っても工面などできません。これが、私たちが罪の奴隷から釈放されて無罪とされるために支払われた身代金の額なのです。まさに本日の御言葉は信仰義認の真理を示すローマ書の中心であり、以下ローマ書はこの中心部分を体系的に詳しく説明していくのです。

このローマ書の中心部分の最初に「ところが今や」、そして終わりに、「今この時に義を示されたのは」、と繰り返し「今」という言葉が使われていますのが大切です。この「今」とは一体いつのことを言っているのでありましょうか・・・。勿論十字架です。神の御子イエスキリストがゴルゴダの丘で十字架につけられた「今」であります。この「今」について2つの面で確認したいと思います。

 まず、この「今」と私たちの罪との関係です。21節の「ところが今や」これは、1:18から続けられてきた罪の議論を踏まえて、その罪からの大逆転を示す言葉です。今まで人間のあらゆる罪がこれでもかというくらいに示され、まるで暗闇の中に置かれた状態でした。しかし、そこに「ところが今や」と光が差し込み、一瞬にして暗闇が光の中へと変わったのです。そうである以上、過去私たちが犯した罪は全て光とされたのです。私たちは過去に縛られてはならないのです。どのような恥ずかしい罪でありましても、キリストの光に照らされて、それさえも光とされているからです。「光の中を歩め」とは、これを確信して生きることです。(エフェソ5:11~14)もはや私がどのような人間であるかは問題ではない、それでも尚キリストの光に照らされているからです。

 しかし、2つ目、そうは言いましても、キリストの十字架が「今」という時でありましたら、そもそも、今パウロがローマ書を執筆している時点でキリストの十字架から25年くらいたっています。25年前と言えば今ではなくて昔ではないでしょうか。どれくらい最初期の教会に説得力があったのでしょうか。それどころか、私たちの時代はさらに2000年近く経っていまして、キリストの十字架は古代の出来事に過ぎないのではありませんか。その莫大な時間の間に、また暗闇に戻ってしまわないでしょうか。答えはNOです。光の中に闇を作ることができないように、十字架の光を闇が再び覆うことは出来ないのです。そして、そのために私たちに与えられるものが「信仰」なのです。神の義は信仰で受け取るからです。だから信仰義認なのです。キリストの十字架から25年たった最初期の教会でこの手紙が「今」のこととして読まれ、信徒に力と喜びを与えた土台は信仰なのです。

 パウロは、彼が去った後、早くも福音から離れて律法主義に向かうガラテヤの教会に決定的なことを言っています。 「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。(ガラテヤ3:1)」これです。ガラテヤの信徒たちは、十字架につけられたイエス・キリストを目の前に見ていませんし、パウロが論理でキリストの十字架を彼らに前に出したのでもありません。

ガラテヤの信徒たちは、信仰の目でそれを見て悔い改めて、十字架の主イエスを信じたのです。

 2000年たった今も全く同じです。 「ところが今や~神の義が示されました」と聖書が言います時、今、私たちの目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたのであります。

 キリストの十字架の救いは、常に「今」差し出されている、これが聖書に言います真理です。

 ですから、十字架の救いは、世の終わりまで常に「今」という時の中で示され、実現されているのです。私たちは、救われても尚、常に罪を犯し、迷い、疑い、怒り、人を傷つけ、倒れこむ者であります。取り返しのない罪を犯す者であります。しかし、私たちが罪人であるという事実さえ、もはや十字架の前には無効です。それでも尚「今」目の前に十字架の光が輝いているこの現実は何ら変わらないからです。 今から後、死の床あって地上を去る日まで、私たちの今は「救いの今」であります。「今や、恵の時、今こそ、救いの日。(Ⅱコリ6:2)」この宣言は十字架を今仰ぐ私たちの十字架の言葉です。