2021年03月14日「人間の論法と神の真実~10年たった今御言葉に問う~」
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人間の論法と神の真実~10年たった今御言葉に問う~
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
ローマの信徒への手紙 3章1節~8節
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聖書の言葉
1節では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。
2節それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。
3節それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。
4節決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。
5節しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。
6節決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。
7節またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。
8節それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。
ローマの信徒への手紙 3章1節~8節
メッセージ
説教の要約「人間の論法と神の真実・10年たった今御言葉に問う」 ローマ書3:1~8
次週の3:9からの段落が、1:18から続けられてきた罪の議論のクライマックス部分でありまして、本日の御言葉は、人間の罪を際立たせながら、その準備をする機能を持っていて、「人間の論法(5節)」と「神の真実(3節)」の対比がなされています。
ここで議論の中心になっているのは、ユダヤ人の「不誠実のせいで、神の誠実が無にされるのか」、という問いです(3節)。それに対して、パウロは、「決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです(4節)」と回答します。神は一方的な恩恵によってイスラエルに契約を与えられましたが、ユダヤ人はその契約を破りました。しかし、それでも尚、神が真実であるがゆえに、その契約は破棄されない、ということです。
そのうえで、今度は、「人間の論法」による問がなされます(5~8節)。その正体は、「人の偽りによって、神の栄光が現わされるのではないか(7節)」、という理屈で、これは最終的に「善が生じるために悪をしよう(8節)」という最も福音を曲解したものに姿を変えます。
実際幾度となく、パウロはこのような理屈を浴びせられてきたのでしょう。これは、パウロの福音宣教の中心使信であります「信仰義認」、すなわち、善い行いのない罪人が信仰で救われる、という福音を逆手に取ったものだからです。しかし、この論法は、「罪人が救われるのだから、罪人のままで何が悪い」、そう言う開き直り以外の何物でもありません。
パウロが福音宣教に明け暮れる中、その福音宣教を妨害し、パウロに対して誹謗中傷をしたのは、律法主義者のユダヤ人たちである、ということは使徒言行録を学んでいます時からよく理解できました。しかし、実はそれと正反対のグループもいて、それは無律法主義者であり、異邦人の快楽主義者たちであったのです。彼らからこの理屈が生まれてきたのでありましょう。
律法主義者と無律法主義者とでは正反対のように見えますが、実は、その根は同じなのです。それは人間中心主義、という共通の根っこなのであります。その場合、両者とも聖書の御言葉は邪魔なのです。人間中心の論理は、神中心の真理と相容れないからです。本日の御言葉でパウロは、徹底してこの人間の論法と戦い、その理屈の正体を明らかにしたのです。
ここでパウロは、人間の不誠実のせいで、神の誠実が無にされることはない、と結論づけました。実は、この「無にされる」、という言葉は、「滅ぼす」、或いは、「消える」、と訳せる言葉で、これは旧約聖書で神の創造の御業にしか用いられない「創造する(バーラー)」、という言葉の対義語です。神の創造された真実を人の不誠実が滅ぼすことは出来ない、パウロはそう言いたいのです。光あれ、と言って万物を創造された神だけに、消えよ、と全てを滅ぼす権威と力があるのです。
私たちを「在れ」と創られた神は、いつの日か「消えよ」とその地上での命を取られる方です。私たちがあるのも、そしてなくなるのも、この神様の御心であるのです。
10年前のあの大震災は、多くの方の命を奪いました。震災の翌年の春、東北地方の復興を願いながら「花は咲く」というチャリティーソングが発表されました。「叶えたい夢もあった、変わりたい自分もいた」、この歌詞が心に突き刺さった方は少なくないと思います。
3月11日といいますと長い冬が終わり、待ち遠しい春の香りが漂うころであります。卒業の日、別れと出会いの時、鳥がさえずり、一面に花が咲く、この新しい命の誕生の時であります。その新しい命の誕生の日に、2万人近くの命が一瞬で奪われてしまった。いいえ、2万人と言いたくありません。そのお一人お一人に私たちと同じように夢があって、変わりたい将来の姿があった。家族や、友人や、恋人がいた。その全てが一瞬で崩れ去ったのです。しかし、そのたった一人でも、主なる神様が忘れられている命はないのです。創造されるのも、滅ぼされるのも主なる神様だからです。主なる神様に取り去られた命には、その一つ一つに必ず意味があり、最後の時に必ず全ての人が納得し、驚くような神様の御業が明らかにされます。
それでも尚、「さぞ怖かっただろうね」、「さぞ苦しかっただろうね」、「できれば変わってやりたい」、「どうして神様は守ってくださらなかったのだろうね」、そう思うのが遺された者の素直な思いです。私たちキリスト者でも同じように思います。しかし、それがいかに切なる思いであろうと、やはりそれは「人間の論法」なのです。本日の御言葉で「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです」と聖書は言います。大切なのは、私たちの心を支配しようとする「人間の論法」に問うたり、左右されたりするのではなく、神の真実に信頼することなのです。
そして、実にこの神の真実が最も示されたのが、永遠であり栄光の神の御子の十字架です。
人間の罪は、神の真実を覆すことは出来ない、人が契約を破っても神は契約を必ず守られる、それがキリストの十字架で完全に示され実現したのです。
この世のどんなに納得がいかないことも理不尽なことも、この神の御子の十字架の前には沈黙せざるを得ないのではありませんか。大震災も、戦争も、飢餓も、病も。これから先どのようなことがあっても・・・。十字架を仰ぐ時、わたしたちの言い分や論理は跡形もなく砕かれます。今、十字架の前に、あらゆる人間の論法は沈黙し、神の真実が輝きます。ここにだけ、全ての回答があるのです。
最後に一瞬にして家族と全財産を失った旧約の信仰者の言葉に耳を傾けましょう。
「ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。(ヨブ記1:20、21)」
「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」、これが創り主に対する私たち被造物の信仰であり忠誠ではありませんか。
あの復興を願う歌は、「花は、花は、花は咲く、」と繰り返し謳います。
全てを失った時、それでも尚、私たちは、目の前にある神様の創造の恵みに目を止めるのではないでしょうか。あの震災の夜、生きていることさえ不思議な被災地で生かされた一人の信仰者は、空の星が悲しいほど美しく瞬いていることに気が付き、失われた無数の命に星の輝きを重ねて泣き明かすしかなかったということです。本当に大切なものを奪われた時、全てを創られた神に頼るしかないのではありませんか。
私たちは最終的には壊すことと壊れることしかできない。
しかし、神は創り主であり救い主なのです。壊れた者を創造の力で再び立ち上がらせてくださる方です。
今年も新しい春が来ました。神様が創造された命が躍動しております。
「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」
私たちも人間の論法ではなく、古の信仰者と共に、神の真実を賛美しようではありませんか。