2021年03月07日「真のユダヤ人、真の割礼」

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25節 あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。
26節 だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。
27節 そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。
28節 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。
29節 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。

ローマの信徒への手紙 2章25節~29節

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説教の要約 「真のユダヤ人、真の割礼」 ローマ書2:25~29

本日の御言葉は短い箇所ですが、ユダヤ人と割礼との関係で、ユダヤ人の罪が指摘されていて、ユダヤ教のしがらみとタブーを打ち破った歴史的にも非常に大切な御言葉と言えます。

割礼は、神の選びの民であるイスラエルにとって、歴史的に最初の契約のしるしでありました。

律法と割礼はユダヤ人のアイデンティティーそのものでありましたが、歴史的には律法の方が割礼よりも後なのです。割礼はイスラエルの最初の族長であるアブラハムに神様が与えてくださった最初の契約のしるしですが、律法の方は、その何百年も後に神様がシナイ山でモーセに与えられた言葉であるからです。そういう意味で、ユダヤ人にとって割礼は、律法以上に古い契約であり、何よりも大切な宗教的民族的シンボルであったのです。

その大切な割礼に対してパウロは「割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか(26節)」、と無割礼の者を割礼を受けている者と同じ立ち位置にまで引き上げています。しかし、そればかりか、次の節では、その立場が逆転するのです。「体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう(27節)」、すなわち無割礼の者が割礼を受けた者を裁くということです。しかも、ユダヤ人の誇りであり、2つのかけがえのないシンボルであった割礼と律法が、こともあろうに今度は彼らを裁くための「直接証拠」に変わるのです。ユダヤ人にとってこれ以上の皮肉はなかったでしょう。

その上で、パウロは、真のユダヤ人と真の割礼を規定します。「内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。(29節)」パウロは、最初期の福音宣教の足かせとなっていた割礼を取り払って、福音が世界に響き渡る条件をここで整えたのです。「内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり」、これは全く新しいユダヤ人理解であり、新約時代のユダヤ人でありますキリスト者を言い表す言葉です。

さらに、「文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです」、と続けます。「文字ではなく“霊”によって心に施された割礼」とは何でしょうか。そうです洗礼です。身体に刻む割礼という外面的なしるしは、もはや不要で、「“霊”によって心に施された割礼」であります洗礼が、真の割礼であるということです(ガラテヤ3:26~28参照!)。

本日は「真のユダヤ人、真の割礼」という説教題が与えられました。それはそのまま「真のキリスト者、真の洗礼」のことであります。先週も試してみましたが、本日の御言葉も「ユダヤ人」のところに「キリスト者」、「割礼」のところに「洗礼」、とこのように読み換えますと、より分かりやすくなります。「外見上のキリスト者がキリスト者ではなく、また、肉に施された外見上の洗礼が洗礼ではありません。(28節)」いかがでしょうか。今日も先週に引き続き、悔い改めを迫る御言葉として目の前に提示されないでしょうか。

 洗礼を授かった時には天にも昇る気持ちであったのに、いつの間にかその喜びが過去のことのように思えてならない、素直にそう思ってしまうことがないでしょうか。さらに、周りは立派な信仰者がいるのに私だけが罪深く思えてしまう。実にこれが信仰生活の現実でもありましょう。それでも尚私たちが、真のキリスト者であり、真の洗礼を授かった者である、という根拠はどこにあるのでしょうか。もはやそれは色あせたしるしに過ぎないのでしょうか。最後にこのことについて、二つ確認したいと思います。

一つ目、まず真の洗礼についてです。

それは、29節にありますように、「文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼」これが真の洗礼である、ということです。つまり、目に見えるあらゆるものは、真の洗礼の根拠や保証とはならないということです。パウロは同じ真理をコリント書で語っています。「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。(Ⅱコリ3:6)」私たちは、身体に刻んだ儀礼の跡や、保証書のようなもので救われているのではないのです。そんな静的で頼りないものではなく、“霊”によって、すなわち聖霊によってその救いが保証されているのです。私たちの救いは、聖霊の力によって約束されているのです。

ここで「霊は生かします」と御言葉は言います。これが非常に大切です。洗礼は、罪に死んでいた私たちが、神の霊によって生かされることだからです。この霊という言葉は、ギリシア語でプニューマ(πνεῦμα)と発音しまして、息や風をあらわす言葉です。神の息、命の息、それがこのπνεῦμαであり霊と訳される言葉なのです。洗礼を受けた者は、神の息を吹きかけられ、新しい命に生きる者なのです。

そもそもどうして人は生きる者になったのでしょうか。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。(創世記2:7)」このように、神の命の息を吹き入れられたから、人は生きる者となったのです。ところが、その直後人は罪を犯し堕落して、死んで塵に帰るだけの者になりました。しかし、洗礼とはその朽ちるべき肉体に改めて命の息が吹き入れられる、この新しい命の誕生なのです。私たちが、自分自身をどのように低く評価しても、神の息が取り上げられることはないのです。私たちは、もはや滅びることなどできない命に生かされているのです。これが、霊”によって心に施された割礼、真の割礼であり、洗礼です。

 二つ目、真のユダヤ人とは何か、ということです。

 29節で、最後にパウロは、「その誉れは人からではなく、神から来るのです」、とこのように言います。この誉れという言葉は、そのまま「賛美する」、「ほめたたえる」、と訳せる言葉です。実は、この「ほめたたえる」、と訳される言葉が最後に使われているところが大切で、ユダヤ人であるなら、或いは敏感な異邦人信仰者も悟ったでしょう。もともとユダヤ人の名前の由来は、アブラハムの子、イサクの子である、ヤコブの12人の兄弟でありますユダの子孫である、ということにあります。

 実は、このユダ、という名前には大切な意味があるのです。「レアはまた身ごもって男の子を産み、「今度こそ主をほめたたえ(ヤダ)よう」と言った。そこで、その子をユダと名付けた。(創世記29:35)」「主をほめたたえる」、これがユダという名前の意味なのです。今、新しい命が誕生した瞬間に、その子は「主をほめたたえる」、ユダと命名されました。ユダヤ人は、その名前の意味である、主をほめたたえる、という大切な役割を忘れて、割礼のしるしや、律法遵守に自らの立場を築いていたのです。外見上のユダヤ人、外見上の割礼とは、そう言うことではありませんか。

私たちも同じです。洗礼を受けて新しい命をいただくのは、主をほめたたえるためであります。私たちが真のキリスト者であり真の受洗者である、という何よりの証は主を賛美することであります。信仰生活を続けるうちに、この賛美や喜びが失われることこそが深刻なのです。自分の信仰が弱いとか、洗礼の記憶が色あせていくことなど大した問題ではないのです。大切なのは、遣わされた場所で、そして何よりも毎週の礼拝で、精一杯主を賛美しているかいないか、これが真のキリスト者、真の洗礼のバロメーターです。