2020年04月26日「祈りと交わり」
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祈りと交わり
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- 新井主一 牧師
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使徒言行録 20章36節~21章6節
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聖書の言葉
このように話してから、パウロは皆と一緒にひざまずいて祈った。
人々は皆激しく泣き、パウロの首を抱いて接吻した。
特に、自分の顔をもう二度と見ることはあるまいとパウロが言ったので、非常に悲しんだ。人々はパウロを船まで見送りに行った。
わたしたちは人々に別れを告げて船出し、コス島に直航した。翌日ロドス島に着き、そこからパタラに渡り、
フェニキアに行く船を見つけたので、それに乗って出発した。
やがてキプロス島が見えてきたが、それを左にして通り過ぎ、シリア州に向かって船旅を続けてティルスの港に着いた。ここで船は、荷物を陸揚げすることになっていたのである。
わたしたちは弟子たちを探し出して、そこに七日間泊まった。彼らは“霊”に動かされ、エルサレムへ行かないようにと、パウロに繰り返して言った。
しかし、滞在期間が過ぎたとき、わたしたちはそこを去って旅を続けることにした。彼らは皆、妻や子供を連れて、町外れまで見送りに来てくれた。そして、共に浜辺にひざまずいて祈り、
互いに別れの挨拶を交わし、わたしたちは船に乗り込み、彼らは自分の家に戻って行った。使徒言行録 20章36節~21章6節
メッセージ
説教の要約 2020.4.26「祈りと交わり」使徒言行録20:36~21:6
本日からは、いよいよパウロの第三回目の伝道旅行のエピローグ部分に向かう場面です。エフェソの長老たちに告別説教を語り、別れを告げたパウロは、その後一行と共に航海を続け、シリア州のティルスに上陸しました(21:1~3)。
ここで舞台となりましたこのティルスという町は紀元前から、非常に栄えた港町でした。
ティルスとシドンは、聖書の世界では周辺地域の一つでありますが、世界史的には、表舞台であり、その繁栄ぶりは都エルサレムの比ではありませんでした。しかし、その割には、「わたしたちは弟子たちを探し出して、そこに七日間泊まった(4節)」、と何事もなかったかのように、当時の大都会で弟子たちを見つけたわけです。実は、この「探し出して」、という言葉が大切なのです。この言葉は、通常使われる「探す」という言葉以上に強い言葉で、新約聖書で2回しか見られません。そしてもう一つは、ルカ福音書の最初にあります、羊飼いたちが、誕生された主イエスを探し当てる場面なのです。「そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。(ルカ2:16)」この「探し当てた」、という言葉です。執拗に探す、熱心に探す、という姿を示すとともに、天からその場所が示される、むしろそこへ導かれる、そう言うニュアンスです。パウロたちは、大都会で、天の導きもあり、すぐに彼らの弟子たちを探し当てた、そう言う記事なのです。
しかし、せっかく探し当てて、そして導かれて与えられた交わりであったのですが、その期間は7日間だけでありました。しかも、その間に「彼らは“霊”に動かされ、エルサレムへ行かないようにと、パウロに繰り返して言った」とあります。これはどこか矛盾しておりませんか。今、パウロは聖霊導きでエルサレムへ向かっております。彼の思い付きや都合ではありません。しかし、ティルスの弟子たちもまた、「“霊”に動かされ」ているのは良いのですが、「エルサレムへ行かないようにと、パウロに繰り返して言った」このように、聖霊の御心とは正反対の立場を取っているのです。
しかし、同じ聖霊に導かれても、同じ回答が与えられない、これは大いにありうることです。パウロもティルスの弟子たちも同じ聖霊の働きを与えられていますが、それでも尚、受け取り方が違うのです。エルサレムに行けばひどい目に会う、これは、パウロには、はっきりと知らされておりました。パウロは、以前の告別説教の中ではっきり言っております。「そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。(20:22、23)」このように聖霊が、パウロに啓示を与えておられた。それでもパウロは、「しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。(24節)」このように受け取ったのです。しかし、ティルスの弟子たちに同じ啓示が与えられたらどうでしょうか。彼らは同じ回答が出来ましょうか。できません。止めます、絶対に。
ですから、その時の彼らの回答は、「エルサレムへ行かないようにと、パウロに繰り返して言った」このようにパウロを何とか引き留めることであったのです。
同じ聖霊の啓示、(今で言いますと聖書の御言葉)を与えられて、ある人は出かけるが、ある人は躊躇する、そのようなことはあるのです。ですから、教会の小会や役員会で、意見が割れて対立が起こる、これは起こりうることなのです。キリスト者の交わりとは、主にある交わりで聖霊による一致です。しかし、同じ御言葉が与えられても、それぞれの判断は違うのです。人間は聖霊なる神の操り人形ではなく、それぞれ意志が与えられているからです。
では、何が必要か。実は、それが本日の御言葉の核心で、最初と最後に出てくるキリスト者の姿なのです。本日の御言葉は、20:36の「ひざまずいて祈った」から始まり、21:5の「ひざまずいて祈り」に終わるのです。つまりキリスト者の交わりとは、聖霊と、御言葉と、祈りなのです。同じ聖霊に導かれ、同じ御言葉が与えられ、その後共に祈る、これがキリスト者の交わりの全体像なのです。この3つの一つでもかけていたらだめなのです。
現在このように離れ離れになって毎週礼拝をおささげしています中で、私たちは、祈りの大切さをいつも以上に感じております。私どもが同じ聖霊に導かれ、今同じ御言葉に与り、共にひざまずいて祈る時、ここには確かにキリスト者の交わりが与えられているのです。
祈りは、離れ離れの信徒をあたかも同じ場所にいるように結び付けるのです。
そのうえで大切なことは、今、聖霊と御言葉、そして祈りによって与えられています私たちの交わりの中心はイエスキリスト、しかも十字架のキリストである、ということです。
これがこの世の付き合いと全然違うところです。この世の付き合いは、信頼関係が土台です。しかし、信頼関係とは、人間相互の立場に基づく関係、人間中心の関係であり、それぞれの罪と無関係ではありません。もしこれが教会の交わりの土台にあるのなら、それは聖書の言います交わりとは違います。自分の立場を主張します時、主イエスとの交わりが消えて、不安や思い悩みばかりが膨らんでいくだけです。そして、これが私たち罪人の姿です。
ヨハネの黙示録で、主イエスは私たちの姿を見事に示されています。
「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。(ヨハネ黙示録3:17)」これが私たちです。果たして「惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者」が、自分の立場を正当化できましょうか。いいえ、出来ません。何とも恥ずかしい場所に今私は立っております。
しかし、キリストだけが、この人間の罪を十字架によって解決してくださいました。
十字架が、私たちの立場を恥から栄光へと逆転させたのです。罪なき神の御子が、御自身の立場を放棄したばかりでなく、十字架で私たちの身代わりとなったからです。
私たちは、罪を持ちながらも、キリストによって、神の子とされたのです。これが主イエスを中心にしたキリスト者の立場です。そして、ここにだけ、この十字架の許にだけ、私たちの交わりの土台、堅固な土台があります。今、私たちが十字架のキリストを中心に、聖霊と、御言葉と、祈りによって交わるのでしたら、この苦難を通してもこの群れは大きく前進し成長し、再会いたします日が、喜びの日となりましょう。