2021年02月21日「裁くのはだれかⅡ-裁き主キリスト」
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裁くのはだれかⅡ-裁き主キリスト
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
ローマの信徒への手紙 2章6節~16節
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聖書の言葉
神はおのおのの行いに従ってお報いになります。
すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。
すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。
神は人を分け隔てなさいません。
律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。
律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。
たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。
こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。
そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。
ローマの信徒への手紙 2章6節~16節
メッセージ
説教の要約「裁くのはだれかⅡ-キリストの裁き」ローマ書2:6~16
本日の御言葉は、先週に引き続き、ユダヤ人の罪に焦点を当てながら、ここでは神の裁きとの関係で語られていきます。そして6節の「神はおのおのの行いに従ってお報いになります。」これについて7節~10節までで説明され、11節の「神は人を分け隔てなさいません。」これが、その後の12節から15節までで具体的に説明されていて、そして最後の16節が、この文脈の最終的な結論になっている、という全体的な文脈構造になっています。
ここで、気になるのは、「悪を行う者には、苦しみと悩み」、そして「善を行う者には栄光と誉れと平和」が与えられる(9、10節)、とされているところです。これは因果応報に則った、勧善懲悪の立場でわかりやすいのですが、果たしてそうでしょうか。私たちは、立派なキリスト者が苦しんでいる姿を何度見てきたでしょうか。彼らは、悪を行う者であるから苦しんでいるのでしょうか。いいえ、そんなはずありません。では一体どういうことなのでしょうか。2つの点から説明できます。
まず、この翻訳に少し問題があるのです。9節の、「すべて悪を行う者には」、実は日本語の本文では、ここで非常に大切な言葉を一つ訳していないのです。ギリシア語の本文では、ここには、魂と訳されるプシュケー(ψυχή)という聖書的に非常に大切な言葉が使われていまして、それが省略されているのです。ですから、この部分正確に訳しますと「すべて悪を行う者の魂には」なのです。ここでは、上面の繁栄や成功を言っているのではないのです。そうではなくて、魂という目に見えない部分の話なのです。つまり、これは因果応報の原理でも勧善懲悪でもなくて、それを超えるものなのです。魂とは、神と罪人が触れ合うところだからです。いくら繫栄していても成功していても、神との関係が断絶していれば、彼のその一番根底にある魂は、生涯苦しみと悩みから解放されることはありません。しかし、この世的にどんなに不幸に見えても、神様との関係が生きていれば、栄光と誉れと平和、が彼の魂に満ち溢れているのです。
二つ目は、他ならぬパウロ自身があらゆる苦難に遭い(Ⅱコリント11:23~28)その只中で、栄光と誉れと平和、が彼の魂に満ち溢れている現実を証しているということです。パウロはここで因果応報のような思想を語っているのではないのです。思想ではなくて真理です。今日、苦難にあるキリスト者も、その証人です。彼らもパウロと共にこの御言葉が真理であることを雄々しく証をしているのです。苦難の中で尚、キリストを賛美するキリスト者ほど、御言葉の証を立てられる者はありません。
ここで、「ユダヤ人はもとよりギリシア人にも(9、10節)」、と繰り返されているのも重要です。当時ユダヤ人は、「善を行う者」が自分たちで、「悪を行う者」が異邦人である、と信じて疑いませんでした。天の国は選民のユダヤ人である自分たちのために用意されている、そう思い上がっていたのです。しかし、ここでその自惚れが根底から覆されているのです。人を二つに分けるのはユダヤ人か異邦人かではなく、善か悪かなのです。ユダヤ人だから天国に行って、異邦人だから地獄に降るのではなく、両者に等しくいずれかが提示されているのです。ユダヤ人の選民意識や誇りが根底から覆されたわけです。
同様に12節から律法を持つ、待たない、という視点で、ユダヤ人と異邦人が対比されます。ユダヤ人たちは、律法を持たないがゆえに異邦人を罪人と見下していました。自分たちはモーセの律法を持っているから正しく、異邦人はそれをもっていないから罪人である、それが彼らの基準でありました。ですから、パウロは今、それもひっくり返しているわけです。神の裁きは、ユダヤ人の基準や彼らの物差しとは全く違うのです。「律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます(12節)」、とこのように、律法を持っているということは、全くアドバンテージにはならないということなのです。
さらにパウロは、「たとえ律法を持たない異邦人も(14節)」、と異邦人の立場に立って、その律法主義に立ち向かいます。そのうえで、「律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです」、とこのように律法を持たない異邦人の状態について説明し、これはさらに、「こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています(15節)」と展開されます。ここでパウロが言いたいのは、御言葉を知らなくても、神のかたちに創られた人間には、不完全であっても必ず良心が与えられているということです。聖書を知らない者が父母を敬う時、彼らは父母を敬え、という律法を与えられていなくても、律法の通り行っているのです。しかし、間違えてはならないのは、その良心で救われる、ということではないことです。
ここで多くの方の心に浮かぶ切実な問いがあるはずです。では彼らは裁きの日どうなるのか。あの10年前の津波に消えた方は、不慮の事故で命を失った親子は、或いは私たちの家族や大切な友人の中でも、なんとキリストに立ち帰らない多くの方が残っていることでしょうか。そういう方は、裁きの日にどうなるのでしょうか。それを回答するのが最後の16節です。「そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。(16節)」この節が今までの議論の結論です。ですから、この「そのことは」、これは簡潔に申し上げれば、いままで語られてきた律法を持たない異邦人と律法を与えられたユダヤ人に等しく下される神の裁きです。ここで最も大切なのは、それがキリストの裁きである、ということです。私たちの家族や友人で、多くの方がキリストを信じないで生涯を終えていきました。あの3・11でもそうでした。今日も貧しい国では生きていくことさえ許されない方がおられます。しかし、全ての方がキリストの前に立たされる、そう聖書は約束するのです。滅びる者もキリストと無関係には滅びないのです。これが私たちの慰めであり、最後の審判についての聖書の回答です。
この世においては、不公平であると思われたり、納得のいかないことはいくらでもあります。しかし、最後の審判の日、それが公平な光の中に置かれ、すべての者が納得するばかりか、キリストの正しい裁きに圧倒されるのです。このキリストの裁きが、私たちの希望そのものなのです。
本日の御言葉は「神はおのおのの行いに従ってお報いになります。(6節)」そして、11節「神は人を分け隔てなさいません。(11節)」と神の裁きの公平性を枠組にし、その公平さが「キリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになる」、と結論付けるのです。
私たちは不公平だと文句を言いつつ、実は、不公平しか知らないのではありませんか。真の公平さは、主イエスキリストにしかないのです。
さらに、ここでパウロは、「わたしの福音の告げるとおり」、と付け加えています。キリストの裁きもまた福音であるということです。私たちが毎週この礼拝で信仰告白している使徒信条がそのまま福音なのです。「かしこより来たりて生けるものと死ぬる者とを裁き給わん」このキリストの裁きは福音の大切な要素なのです。救い主が裁き主だからです。十字架で死ぬほどに私を愛し、滅びに向かって歩んでいた私を見つけ出し、救い出してくださり、生涯共に歩んでくださった主イエスが、私の裁き主なのです。これ以上に公平でしかも安全な裁きがほかにありましょうか。