2021年02月14日「裁くのはだれかⅠ-神の報い」

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聖句のアイコン聖書の言葉

だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。神はおのおのの行いに従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。神は人を分け隔てなさいません。ローマの信徒への手紙 2章1節~11節

原稿のアイコンメッセージ

説教の要約「裁くのはだれかⅠ-神の報い」

ローマ書は1:18から本論に入り1章の終わりまでは、主に異邦人の罪に光が当てられるのですが、2章になりますと今度はユダヤ人の罪にも目が向けられていきます。

2節と3節で「このようなことを行う者」、と繰り返されています。これらは1節の後半で示されている異教徒の偶像崇拝から起こるあらゆる罪です。最後まで十字架を否む者には、「神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになる」、この言葉が向けられているのです。しかし、ここではそれ以上に深刻な者がいることがわかります。それが、「このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者(3節)」、これです。罪を犯し続けるような人を横目で見て、とんでもない連中だ、と裁きながら、自分には無関係だ、とこのようにしらを切る、しかし、その本人が同じことをしている、ということです。

具体的には、主イエスの十字架の場面を思い浮かべていただきたいのです。主イエスの十字架の下には見物人や野次馬が集まり、あざ笑いながら、十字架の主に罵声を浴びせかけていました。これが、私たち罪人の姿です。しかし、主イエスに対する冒瀆はいいのです。何を言っても赦されるのです。それでも、この主イエスの十字架の下で、罪人同士で裁きあっているのは赦されないということなのです。「十字架につけよ」、と主イエスを罵倒した者は赦されるのです。しかし、「十字架につけよ」と隣人を裁く者は赦されないのです。神の裁きが、全て主イエスに向けられ、十字架の下にいる者には、罪の赦しだけが向けられているからです。どうして、この十字架の主に赦された者の罪を探し出して、今度は隣人や兄弟を十字架につけようと騒ぐのでしょうか。十字架の下の誰にそんな資格がありましょうか。神が赦したものをどうして人が裁くのでありましょうか。「あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか」、と問われるのは、そのような者なのです。そして、十字架の救いが実現した後も、これを続けていたのがユダヤ人であったのです。

そもそも、主イエスの十字架の下に異邦人がどれだけいましたでしょうか。ローマの兵士やその周辺の者たち、とほんのわずかです。あのゴルゴダの丘には、ユダヤ人が群がり、ユダヤ人の罪が渦巻いていたのです。つまり、パウロが異邦人の罪として挙げた1:29から始まる悪徳リスト「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い(1:29)」、その最初の頁を開いたのは他でもないユダヤ人であったのです。 「このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者」、この正体はユダヤ人なのです。

しかし、このユダヤ人の姿と私たちは、無関係でしょうか。聖書はここで私たちに何を教えているでしょうか。本日の御言葉から三つの真理を与えられたいと思います。

まず、裁くのはだれか、ということです。ここでは自分たちを棚に上げて異邦人を裁くユダヤ人の姿が浮き彫りにされました。ユダヤ人は、自分たちが神の御子を十字架につけておきながら、異邦人を罪人扱いしていたのです。では私たちキリスト者はどうでしょうか。私たちは、神の民です。神に選ばれ、一方的恩恵によって罪許され、救われ、永遠の命が約束され、神の国の祝福の中で生きています。しかし、私たちは、人を裁く者であります。隣人を裁き兄弟まで裁く、これが、私たちの現実の姿ではありませんか。十字架の下で延々と裁きあっている、それが私たちです。ユダヤ人の姿は、私です。私たちは、新約時代のユダヤ人なのです。せっかくキリストが私たちの罪を帳消しにしてくださったのに、それを台無しにしようとしている。3節の「このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ」このパウロの指摘に心当たりがない方が果たしておられましょうか。自分自身については、何しても大目に見てやるが、兄弟の些細なことは気になって仕方がない、いつの間にか裁いている、神の立場であるかのように周りを見ている、それが私たちです。私たちもまた、人を裁く者であり、「他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている」、この本末転倒ともいえる滑稽な罪人なのです。

 しかし2つ目、その人を裁く私たちが、3節後半で「あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか」と問われた時、それでも尚、この「神の裁きを逃れられる」ことを約束するのが、このローマ書の中心使信であり、これこそが福音である、ということです。ローマ書のテーマであります信仰義認は、言い方を変えれば、「神の裁きを逃れられる福音」だからです。私たちは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている罪人です。しかし、たとえ、私たちが自分自身を罪に定めていても、それを覆してくださる方がおられるのです。実は、この罪に定めている、という言葉は、このローマ書のクライマックス部分でもう一度出てくるのです。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。(ローマ8:34)」この「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう」、この「罪に定める」という言葉です。誰かが、私を罪に定めても、他でもない私が自分自身を罪に定めていても、(むしろ私たちは自分自身を罪に定めることしかできないのです。)しかし、それでも尚、「キリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださる」、この約束は取り消されないのです。一番私の弱さをご存知である主イエスが私を執り成し、赦しを確定してくださるのです。それゆえに、「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう」、とパウロと共に私たちも歓喜の声をあげることが赦されるのです。

 さらに3つ目、そればかりではありません。「神はおのおのの行いに従ってお報いになります。(6節)」この約束です。私たちは、罪に定められないばかりか、神の報いを楽しみに忍耐することが許されているのです。実は、パウロは死の直前に愛弟子でありますテモテに宛てた手紙でこの6節の「神はおのおのの行いに従ってお報いになります」の報いるという言葉を使って、キリスト者の忍耐に対する報いを明確に語っているのです。「今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。(Ⅱテモテ4:8(394))」日本語の本文ではわかりませんが、この「正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです」、この「授けてくださる」、この言葉が、本日の御言葉で「報い」と訳されている同じ言葉です。神の報いは、「義の栄冠」なのです。しかも、パウロだけでなく、「主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます」、この約束が私たちにも与えられているのです。

この世的には全く無力で、蔑まれながら来る日も来る日も十字架の主の福音宣教を続け、主イエスの再臨を待ち望む私どもキリスト者にとって神の報いは義の栄冠なのです。もはや、私たちにとって裁きは裁きではありません。義の栄冠をいただく日です。もはや、私たちにとって、死も死ではありません。それは、永遠の喜びに迎い入れられる想像もできない天の国の祝福に与る日であります。