2021年01月31日「これもまた福音Ⅱ-十字架の下で」

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これもまた福音Ⅱ-十字架の下で

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 1章24節~32節

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聖句のアイコン聖書の言葉

そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。ローマの信徒への手紙 1章24節~32節

原稿のアイコンメッセージ

説教の要約「これもまた福音-Ⅱ十字架の下で」ローマ信徒への手紙1:18~23

 本日の御言葉は、先週の箇所の21節以下で示された偶像崇拝の帰結であり、偶像崇拝が引き起こした愚かな転倒について、実に見事に示しています。

本来は創り主をほめたたえ、賛美しなければならないのに、あろうことか創り主に創られた者の方を賛美し、礼拝までささげる始末、これが偶像崇拝の正体で、ここに大きな転倒があるのです。物事がさかさまになっているのです。ですから、「神の真理を偽りに替えた(25節)」さらに、「造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えた(25節)」、と、愚かな転倒が起こるのです。さらに男女の自然の関係が転倒し(26、27節)、知恵が無価値なものへと転倒し(28節)、その愚かな転倒から引き起こされる悪徳リストが公開されます(30、31節)。

しかし、実にこの愚かな転倒に対して、神は驚くべき二つの転倒によって回答してくださいました。

 一つ目、偶像崇拝の転倒に対して、永遠の神の御子が転倒してくださった、ということです。

 神は神のかたちに人間を創られたのです。しかし、人間は、人間のかたちに神を偽造したのです、これが偶像崇拝の愚かな転倒でありました。ところが、それ以上にありえない愚かな転倒があるのです。それがイエスキリストなのです。

神は神のかたちに人間を創られたのに、人間のかたちに神を偽造した人間に対して、最終的に神様はどのように回答したでしょうか。実に、神が人間のかたちになって地上に来られたのです。驚くべき転倒、これほど愚かな転倒がほかにありましょうか。永遠であり栄光の神の子が、滅ぶべき惨めな肉体をとって地上に来られたのです。そして、これが憎むべき偶像崇拝に対する神の回答なのです。神は人間の罪に愛をもって答えてくださった、アイロニーにさえ見えてしまう転倒なのです。

 しかし、二つ目、実は、それ以上に大きな転倒があったのです。

それは、そのイエスキリストが十字架で死なれたという転倒で、これは、世界がひっくり返ってもあってはならない転倒なのです。

 本日の御言葉では、聖書的にも非常に大切である「まかせる」或いは「委ねる」、「引き渡す」、と訳される言葉がキーワードとして3度使われています、それは「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ(24節)」この「まかせられ」、そして、「神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました(26節)」この「まかせる」、という部分、最後に、「神は彼らを無価値な思いに渡され(28節)」この「渡され」、と3度繰り返されています。主なる神は、偶像崇拝者の彼らが転倒するままに、ひっくり返ったままにしておかれたのです。どうしてでしょうか。彼らの罪を黙認して、内緒でカウントして、後でまとめて罰を与えるためでしょうか。いいえ、その裁きは、全てキリストに向けられたのです。その彼らの罪の総決算がゴルゴダの丘で示されたのです。

 実は、本日の御言葉で3度繰り返されています、「まかせる」或いは「委ねる」、「引き渡す」、これは、ギリシャ語で「パラディドミー」(παραδίδωμι)という言葉で、イエス様が十字架に向かう場面で何度も繰り返される言葉なのです。特に、その場面を描くマタイの26章はこの言葉で始まりこの言葉で終わります。

 「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。(マタイ26:2)」この「人の子は、十字架につけられるために引き渡される」、この引き渡す、という言葉です。さらに15節、21節、23節、24節、25節でもこの言葉が使われます(「裏切る」と訳されている言葉も「パラディドミー」(παραδίδωμι)です)。そして、最後に45節「人の子は罪人たちの手に引き渡される。」この引き渡される、続いて46節「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」この裏切る者、これもすべて「パラディドミー」であります。「パラディドミー」のオンパレードなのです。側近中の側近であります12弟子の一人ユダの、しかも接吻を合図にする裏切りという転倒が用いられて主イエスが十字架に引き渡されるのです。

 ですから、この「パラディドミー」この引き渡すと訳される言葉は、主なる神様のご計画の中で十字架の救いが実現していく時に使われる極めて大切な言葉なのです。

 つまり、本日の28節の「神は彼らを無価値な思いに渡され」までで3度繰り返される「パラディドミー」この引き渡すという言葉の上には十字架が立っているのです。

 「神は彼らを無価値な思いに渡された」、しかし、同時に神はキリストを十字架に引き渡されたのです。そして、これが、あのゴルゴダの丘の全体像ではありませんか。

今日も先週に引き続き「これもまた福音」という説教題が与えられ、「十字架の下で」と加えられました。福音は、キリストの十字架です。神の御子がゴルゴダの丘で、十字架で殺され、私たちの罪が帳消しにされた。これが福音です。しかし、ゴルゴダの丘には十字架がたっていただけでしょうか。いいえ、そこには多くの野次馬や見物人が押し寄せていました。無価値な思いに渡された、罪人がそこに群がっていたのです。

 「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。(29~31節)」実に、これが十字架の下にあった風景ではありませんか。十字架の下で渦巻いていた人間の罪ではありませんか。そして、このゴルゴダの風景全てが福音なのです。

 福音とは、十字架の上で死の苦しみにあえいでいた方と、十字架の下に群がって嘲笑っていた者、このコントラストなのです。そしてこれこそが転倒なのです。本来ならば、彼らが全員磔にされなければならなかった、罪人の数だけ十字架が必要であった、しかし、磔にされたのは、最も磔にされてはならない神の御子であった。この転倒によって、驚くべき逆転が起こり、私たち罪人は救われたのです。死刑のはずの罪人が無罪になったのです。

 私たちもこの十字架の下におりました。いいえ、今もそこにおります。相変わらず、罪を犯さずには、生きることさえできないからです。

しかし、十字架の下にいる以上、十字架の主を仰ぐことは出来ます。そしてこれが福音なのです。私たちは死ぬまで罪人である、しかし、それはもはや問題ではない。罪人が救われるから福音なのです。十字架の下から、私たちの罪のために引き渡されたイエスを救い主と仰ぎ、悔い改めて、主なる神様の驚くべき転倒によって生かされる時、私たちはすでに、永遠の命に歩み始めております。