2021年01月17日「聖書のみ、信仰のみ、恩恵のみ」
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聖書のみ、信仰のみ、恩恵のみ
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
ローマの信徒への手紙 1章16節~17節
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聖書の言葉
わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。ローマの信徒への手紙 1章16節~17節
メッセージ
説教の要約 「聖書のみ、信仰のみ、恩恵のみ」ローマ信徒への手紙1:16、17
先週から、このローマ書のテーマであり結論である1章16節と17節の御言葉から教えられています。本日は、宗教改革者マルティン・ルターの信仰の目を開いた御言葉としても非常に有名であります17節の御言葉の方が与えられています。ここでパウロは、「福音には、神の義が啓示されています」、とこのように切り出します。この「神の義」の義という言葉は、あまり使われない馴染みのない言葉ではないでしょうか。この義という言葉は、もともと古代社会の裁判で使われていた法廷用語でありまして、ギリシア語では本来「法廷で無罪が宣告される」、そう言う意味です。ですから「神の義」というのは、神様の法廷で無罪宣告がなされる、それが正しい意味です。「神の正しさ」、と言い換えることもできましょう。この神の正しさが、福音に啓示されている、とこのようにパウロは言うのです。実は、この啓示という言葉がとても大切なのです。これはもともと「覆いを取り除く」という意味でありまして、隠されていたものの覆いが取り除かれて見えるようになることを意味し、そして、これは旧約聖書と新約聖書の関係とも言えます。福音というのは繰り返し申し上げますが、イエスキリストの十字架と復活です。つまり、イエスキリストの十字架と復活によって、旧約の覆いが取り除かれて、神の義が明るみに出された、ということなのです。そのうえで、パウロは、「正しい者は信仰によって生きる」とハバクク書2:4の御言葉を引用して証拠聖句とするわけです。
そして実は、このハバクク書の御言葉が、特にこのパウロの時代非常に重要な意味を持ったのです。当時のユダヤ社会で、聖書の教師であり律法の権威であったファリサイ派のラビたちは、モーセの律法を要約した御言葉を、旧約聖書の中に数か所用意して、その御言葉を旧約聖書の中心に据えていたのです。実は、その頂点にあった御言葉が、他でもないこのハバクク書の御言葉であったのです。彼らは、「しかし、神に従う人は信仰によって生きる」このハバクク書の御言葉を律法全体の要約である、と教えていたのです。しかし、その場合、明らかにこの御言葉を曲解していたことになります。これはエルサレムが、バビロンに滅ぼされる時に預言者ハバククに与えられた神の言葉だからです。ユダヤ人たちは、神の律法を守らず偶像崇拝を繰り返していた結果滅ぼされ、バビロン捕囚という苦しみが与えられたのです。それでも尚、神様が下さった憐れみの言葉が、「神に従う人は信仰によって生きる」、これなのです。どうして、これが律法の頂点にあるのでしょうか。むしろ律法を守れない民に与えられた憐れみ以外の何物でもないはずです。しかし、このハバククの時代から500年以上過ぎたパウロの時代、これは神の戒めを遵守する生き方である、というのがユダヤ人たちの解釈であったのです。ですから、ここでパウロが、「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです」、とこのハバクク書の御言葉を、律法遵守ではなくて、救いを信仰のみで受け取ることの証拠聖句とした時、当時のユダヤ教に対して決定的な状況を作り出しているのです。ここでパウロはユダヤ教の天王山に立って、ユダヤ教の最高の聖書解釈に対して弓を引いているからです。
ユダヤ教の高名なラビたちは、「正しい者は信仰によって生きる」これを「正しいものは律法を守って生きる」、と主張していましたが、パウロは、これを御言葉が言う通り、そのまま「正しい者は信仰によって生きる」と訂正したのです。つまり、ここでユダヤ教とキリスト教が完全に決裂しているのです。パウロに与えられたキリスト教の聖書のみの解釈によって、イエスキリストの十字架と復活によってその覆いが取り除かれ、旧約聖書に回答が出されたのです。この真理をパウロはコリント書で明確にしています。 「しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。(Ⅱコリ3:14~16(328)」これが実に「福音には、神の義が啓示されています」この真理です。モーセの律法は、福音、すなわち、キリストの十字架と復活によって完全に実行され、実現したのです。ですから、キリストの十字架と復活によってモーセの律法、そして旧約聖書全体に光が照らされ、その覆いが取り去られて、罪の赦しにも、罪人の救いにも、永遠の命にも回答が出され、ここに、神の義が実現したのです。その時、私たち罪人に無罪宣告が下されたわけです。実にこれが聖書のみ、信仰のみから導き出された回答なのです。しかし、これでお仕舞いではないのです。実はそれでも尚、まだ本日の御言葉には恵みが残されているのです。旧約全体がキリストの十字架と復活で実現し、私たちの救いが実現した。それはその通りです。しかし、それを受け取る信仰についての恩恵を忘れてはならないのです。「正しい者は信仰によって生きる」これを信仰のみ、と正しく解釈しても、いつのまにかその信仰が功績になり得るからです。「正しい者は信仰によって生きる」、それは、つまり信仰がなければ救われないということでもあります。その場合、人間側にも信仰という救われるための条件が生じるわけです。つまり人間が信仰をもって受け取る時にだけ、福音は力を持つということになります。
では、信仰がなければ福音は力を発揮しないのでしょうか。いいえ、聖書が言っているのはこれと全く違います。16節で学びましたように、福音は神の力で、それは、どのような頑なな罪人さえ打ち砕き、さらに滅びゆくはずの身体に永遠の命を与える圧倒的な力だからです。つまり福音に力を与えるのが人間の信仰なのではなく、人に信仰を与えるのが福音の力なのです。十字架の言葉は、罪人の心を砕き、信仰と永遠の命を与えるのです。信仰さえも人間の賜物ではなく、神様からの授かりものなのです。ですから、私たち罪人の救いは最初から最後まで神の恩恵が全てなのです。聖書のみ、信仰のみ、そして恩恵のみ、これが罪人の救いの全体像なのです。
神の義は確かに神の正義です。しかし、それは、罪人を裁く正義だけではなく、私たち罪人を許す正義でもあり、それをただで受け取るものが信仰なのです。ですから、多くの神学者は、信仰をこの神の義である救いを受け取る手のようなものだと言います。或いは、信仰は管のようなものであるという者もおります。しかし、どちらも不十分だと思うのです。では、お前はどういうのだと問われた時、私は橋だと回答します。地上と天国に架けられた橋、それが信仰ではありませんか。そしてその橋はキリストが、十字架によって架けてくださったのです。私たちは材料の一つさえ用意していなければ、橋を架けるための労働さえも全くしていない、十字架を仰いだ時、その橋が天国まで伸びていたのです。この橋が信仰そのものであり、私たちはこの橋を渡るだけで救われるのです。十字架によって救いの橋が架けられ、今私は御言葉に従ってそこを歩んでいる。この全体が、聖書のみ、信仰のみ、恩恵のみ、のこの罪人の救いの図式です。死の恐怖から解き放たれ、律法から解放され、そればかりか天国のあらゆる宝を約束され、今この橋を渡っている途上に私たちはあります。辿り着く先には、先に召された愛する者の笑顔がある、何よりも栄光のキリストが完全な姿で手を広げて待っておられる、もはやこの地上におきます終点は恐れでなく、この上ない大きな喜びです。