2020年04月19日「伝道者の告別説教‐Ⅳ主イエスの言葉」
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伝道者の告別説教‐Ⅳ主イエスの言葉
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使徒言行録 20章32節~35節
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聖書の言葉
そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。
わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。
ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。
あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」
使徒言行録 20章32節~35節
メッセージ
先週はイースター礼拝、そしてその前は受難週の主の日でありましたので、御言葉の説教も一度使徒言行録講解から離れて、特に主イエスの十字架と復活を覚える御言葉が与えられました。
本日からまた使徒言行録講解の続きに戻ります。
そうは言いましても、聖書のどこを開いても、その中心は主イエスの十字架と復活であり、聖書全体が十字架の言葉です。
ですから、また使徒言行録講解を続けながら、より一層主イエスの十字架と復活に与り、悔い改めて、永遠の命に生かされています喜びと希望を証するために整えられたいと願っております。
さて、本日の御言葉は、20:18節から続いております、パウロの告別説教の続きであります。
私たちはこれを今まで3回に分けて教えられてまいりました。
今日はその4回目で最終回であります。
このエフェソの長老たちに対するパウロの告別説教は、使徒言行録のクライマックス部分ともいえる、このように、この箇所に入りました第一回目の時に申し上げました。
それだけ大切な真理が、ぎっしりここに詰まっているわけです。
少し時間が空きましたので、最初にもう一度この説教の全体的な構造をおさらいいたします。
隣の頁の18節から本日の箇所の35節まで続きます、このパウロの説教は「そして今」という言葉が、説教の展開を導くキーワードになっていまして、22節、25節、そして32節の頭にこの言葉が置かれています。
この「そして今」という言葉によって説教の展開が変わるわけです。
18節から21節までは、過ぎし日の出来事でありまして、パウロのエフェソ伝道の回想と言えます。そして22節の「そして今」から24節までは、この告別説教を語っているこの時、現在の状況です。
さらに25節の「そして今」から31節までは将来のエフェソ教会についてのこと。
最後の32節の「そして今」から35節まではこの説教の結論部分。
このような構造になっておりまして、本日の御言葉はこの告別説教の結論が示される部分です。
申し上げてまいりましたように、大切なのは、「そして今」とパウロが言います時、それはパウロの都合や思い付きで過去を振り返ったり、現在の状況を見たり、将来に目を向けているのではないということです。
これは、パウロが信仰の目を開いて過去、現在、将来を見て語っていることなのです。
すなわち、「そして今」とパウロが言います度に、聴衆には「信仰の目を開け」と言われているのです。今、この説教を聞いているエフェソの長老たち、同様にこの御言葉を、与えられている私たちは、「信仰の目を開いて」この御言葉の前に立たなければならないのです。
それでは、「そして今」と今私たちは信仰の目を開いて、もう一度本日の御言葉の節を追いながらご一緒に見てまいりましょう。
32節「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。」
そして今、すなわち、「信仰の目を開け」このように言った後で、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。とパウロは告別説教の結論部分に突入いたします。
前の段落で、パウロは、近い将来エフェソ教会に襲い掛かる危険を隠さずに宣告しました。
エフェソ教会は外部だけでなく、内部からも、しかも教会の指導者たちの中からも教会に敵対する者たちが現れるのです。
エフェソ教会は危機的状況に立たされるのです。
そのうえで、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます、このようにパウロは、この戦いを全能者なる神と、その御言葉に委ねることを宣言します。
そしてこれがエフェソ伝道を終えた直後のパウロの信仰そのものです。
これを語っていたパウロ自身も気が気ではなかったはずです。
このエフェソで伝道をしながら、コリントの教会に書き送った手紙でパウロはあからさまに当時の心境を告白しています。
Ⅱコリ11:28、29(339)「このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。」
これが、今ここで説教を続けていますパウロの本心であり、心の叫びです。
パウロが真理を語る側から、それを曲解させて信徒を迷わす輩が後を絶たなかったのです。
実際、この後十年もたたず、パウロは殉教の死をとげるのですが、その死の牢獄にある時、彼の周りには数人の弟子しかおりませんでした。
Ⅱテモ4:9(395)「ぜひ、急いでわたしのところへ来てください。デマスはこの世を愛し、わたしを見捨ててテサロニケに行ってしまい、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマティアに行っているからです」
このように、みんなパウロを見捨てていったのです。
さらに16節「わたしの最初の弁明のときには、だれも助けてくれず、皆わたしを見捨てました。彼らにその責めが負わされませんように。」
パウロは、彼の弟子や友人たちからも見捨てられ、地上の生涯を終えていったのです。
この大伝道者は、この世的には何とも惨めに寂しく殺されていったのです。
しかし、それでも尚、本日の箇所に戻りまして、もう一度32節「神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます」、ここにパウロが立っていた以上、彼には平安が満ち溢れていたでしょう。
エフェソ伝道を終える今も、殉教を目の前にした牢の中でも。
福音宣教におきましては、この世的な成果が、或いはこの世的な結末が全てではないのです。
私たちの時代も福音宣教の成果が上がらない、それどころか信徒が減少していく、これが現実として目の前に突き付けられています。
しかし、大切なのは、その現実の中で尚、神とその恵みの言葉に私たちが信頼しきることです。
御言葉を、御言葉が望む通りに語り続けることです。
パウロもそうでした、彼は、愚直に十字架の言葉を語った、いいえ十字架の言葉以外は何も知るまいと誓って福音宣教を続けたのです。
その結論が、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます、なのです。
今、伝道不振を理由に、神とその恵みの言葉以外のものが、キリストの教会に幅を利かせてはおりませんか。
神とその恵みの言葉への信頼を失ったら教会は終わりです。
そして、続いてこの神の言葉の2つの性質が簡単に示されています。
この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです、この部分です。
まず一つ目は、あなたがたを造り上げる、すなわち教会を建てあげる、ということです。
神の言葉は教会を建てるのです。
そしてもう一つは、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができる、これです。
この聖なる者とされたすべての人々、これはキリスト者を言い換えた表現です。
さらに、ここで恵みを受け継がせる、と恵みという言葉が使われております。
日本語の本文では、この恵みという言葉は、その前にあります、その恵みの言葉、この部分の「恵み」と同じように見えてしまいます。
しかし、ギリシャ語の本文では違います。
この32節前半の「その恵みの言葉」、この恵みの方は、他のところでも通常「恵み」と訳されております。しかし、後半の「恵みを受け継がせる」、この恵みという言葉は、遺産とか相続分、と通常訳されている言葉なのです。
ですから、ここで言われています恵みは、私たちが受け継ぐ神の国の全ての財産、永遠の命を含めた神が用意してくださっているご褒美の全てです。
「恵みの世継ぎ」と言い換えることも出来ましょう。
ですから、神の言葉は、教会を建てあげるとともに、私たち信徒に永遠の命と天国の富を与える、そのようにパウロは言ってはばからないのです。
33節「わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。」
ここも訳に少し問題がありまして、他人の金銀や衣服を、とあります他人のという言葉は、原文にはありません。
つまり他人だけではないのです。自分のも含まれるのです。
他人のものであろうが、自分のものであろうがパウロは一切むさぼらなかった。
自分に与えられたわずかな収入さえ、正しく用いてきた、そのようにパウロは堂々と言い切るのです。
これは、私たち伝道者に対しては非常に厳しい言葉です。
現在の伝道者は、どれだけの者がこのように断言できましょうか。
今、主の再臨の直前の時代に、本当に悔い改めなければならないのは伝道者です。
伝道者とは、主イエスのために破産したキリスト者です。
この世の富ではなく、「恵みの世継ぎ」を宣教する伝道者が、この世の富に満たされていたら、伝道なんてできません。
「ちいろば」と名乗って52歳で天国に凱旋した一人の伝道者が、次のように言っておりました。
「安楽な生活を確保しながら福音を語って、どれだけの人々の魂に響くだろう。福音にまっしぐらに生きる姿が人々を恐れさせるのである。」
この通りです。
愚かな金持ちの話を信徒に説教しながら、牧師が愚かな金持ちになることはとても簡単なのです。
そして、主イエス様は全てを今ご覧になっております。
私たちの改革派教会の全ての牧師を用いておられます。
ですから、今教会が伸び悩んでいる、伝道が上手くいかない、それは決して神の力が落ちたわけではありません。神は永遠不変の全能者です。
使徒言行録で躍動しておられる聖霊は今も同じように躍動されています。
教会に元気がない最大の理由は、今、パウロのような伝道者がいないからではないでしょうか。
まず私たち牧師が御言葉に悔い改めて、この世の富を放棄して、身体ごと主なる神にささげなければなりません。
そうでなくて、どうして私たち牧師が再臨の主にお会いできましょう。
34節「ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。」
何度か触れてまいりましたが、この時パウロは、肉体労働を続けながら福音宣教に勤しんでいました。
丁度このころパウロは、コリントの教会に、「福音を宣べ伝える人たちが、福音によって生計を立てる」ことの正当性を主張しています。
しかし、そう言う本人は、福音によって生計を立てていなかったのです。
それどころか、パウロが肉体労働で得た収入は、共にいた人々のためにも使われたのです。
さらに次の節が非常に大切です。
35節「あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」
ここで主イエス御自身が言われた言葉として、『受けるよりは与える方が幸いである』この言葉が示されています。
この御言葉が一体いくつの教会を建ててきたでしょうか。
私たちのこの高島平キリスト教会も『受けるよりは与える方が幸いである』坂戸教会の、この御言葉に立った開拓伝道が主に喜ばれ、主に用いられて教会設立が実現いたしました。
『受けるよりは与える方が幸いである』確かにこの御言葉は教会を建て、そしてキリスト者を伝道に駆り立てるのです。
しかし、実は福音書にあります主イエスの言葉に、『受けるよりは与える方が幸いである』この言葉はありません。
ですから、大きく言いますと、この御言葉について2つの解釈があります。
一つは、福音書に実際書かれていないが、使徒たちが共有していた主イエスの言葉があった、ということ。
それはありえましょう。
もう一つは、パウロが主イエスの言葉や主イエスの生涯を要約して、『受けるよりは与える方が幸いである』この言葉で表現した、ということです。
どちらもその通りであると思いますが、パウロの場合は後者ではないでしょうか。
福音書の主イエスの言葉にも、似たような表現はあります。
ルカ6:29~31(113)「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」
これは、まさに『受けるよりは与える方が幸いである』このイエスの言葉そのままです。
これに加えて、パウロは十字架の主を仰いだのでありましょう。
十字架でご自身の命さえ、罪人の頭に差し出した主イエスの姿が、常にパウロの目の前にあったのでしょう。目の前に。
それを要約して、『受けるよりは与える方が幸いである』このようにパウロは主イエスの言葉を受け取っていたのでありましょう。
しかし、その場合それだけでは済まないでしょう。
『受けるよりは与える方が幸いである』このイエスの言葉はそのままパウロの信仰告白の言葉となっているのです。ここで。
ここでパウロは、『受けるよりは与える方が幸いである』という主イエスの言葉を身をもって示してきました、と言うからです。
この愚直な大伝道者は、主の言葉に体全体で信仰告白をしたのです。
主イエスの言葉をパウロは実演した、それは彼が、主イエスの言葉に生きたからです。
そして、主イエスの言葉に生きる、これがキリスト者です。
加えまして、この節の最後に「示してきました」、という動詞がありますが、原文で見ますと、実はこの言葉がこの文章の文頭にあるのです。
ですから、実はこの文章では、示してきました、この言葉が非常に強調されているのです。
さらに、この言葉は、頻繁に使われる「示す」という言葉ではなくて、新約聖書でも6回、使徒言行録に限っては2回しか見られない珍しい言葉なのです。
そして実は、使徒言行録のもう一回は、パウロの回心の場面で主イエスご自身が使っているのです。
使徒言行録9:15、16(230)「すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」
この最後のわたしは彼に示そう、この示す、という言葉、これが、本日の箇所でパウロが言う「示してきました」なのです。
パウロはイエスに示されたまま生きて、それをエフェソの人たちに示したのです。
イエスに示されたことをパウロは示したのです。
迫害者であった、若かりし日のパウロを砕き、伝道者に変える時、主イエスが彼に示された道、その道をパウロがそのまま歩んできたということです。
わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないか、それがパウロにとって、『受けるよりは与える方が幸いである』という生き方になっていたのです。
すなわち、これはパウロの回答です。
『受けるよりは与える方が幸いである』これは、わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないか、この主イエスの言葉に対するパウロの回答にもなっているのです。
なんと麗しい記事でありましょう。
これは、生涯をキリストにささげた男の全身全霊の生きた信仰告白であります。
しかし、これは他人事でしょうか。
めでたしめでたし、で終われましょうか。
いいえ、キリスト者である以上、私たちにもこれが求められているのではありませんか。
わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないか、この御言葉が一度も立ち上がらないキリスト者はおりますでしょうか。
いいえおりません。
キリスト者である以上、キリストと共に苦しまない、などありえないからです。
しかし、いつの間にか、自分の都合を優先して『受けるよりは与える方が幸いである』これがスローガンに変わっておりませんか。
いつの間にか、信仰告白をスローガンにすり替えておりませんか。
信仰告白とスローガンとでは雲泥の差があります。
信仰告白は、神に対する私どもの回答だからです。
本日招きの詞でイザヤ書の御言葉が与えられました。
「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」
今私たちに与えられています富や財産は、全て一夜にして枯れてしぼむ草や花のようなものです。
この肉体の命、大切な家族さえも。
どんなに大切な人でも、必ず別れの日は来ます。
風のように空しく消えて行ってしまう。
しかし、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つのです。
スローガンであれば、この世の事情にも左右されましょう。
しかし、信仰告白は違います。
信仰告白とは、この世を取るか神の国を取るか、このはざまでなされる契約だからです。
そして、信仰告白とは、この世に対して、私どもが、神の国の住民であることを宣言する言葉だからです。
この世に望みをかけた時、『受けるよりは与える方が幸いである』これは何とも愚かな言葉です。
しかし、神の国に望みをかけた時、『受けるよりは与える方が幸いである』この御言葉が私たちの信仰告白の言葉となるのです。
私どもは、神の国の住民です。
「我らの国籍天にあり」、と天を仰ぐ神の民です。
それゆえ、『受けるよりは与える方が幸いである』今、病に怯える世の中で、これが私たちのキリスト者の立ち位置です。
私たちは、今こそこの御言葉に立って、神と教会と世の人に仕えましょう。