2020年12月13日「天を仰げ~アドベントの信仰~」
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天を仰げ~アドベントの信仰~
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
創世記 15章1節~6節
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聖書の言葉
これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。創世記 15章1節~6節
メッセージ
説教の要約 「天を仰げ~アドベントの信仰~」創世記15:1~6
今週でアドベントの第三週となりまして、早くも次週はクリスマス礼拝です。
今年のアドベントは、再臨の主を待ち望む私たちの信仰が養われることを願いつつ、信仰の父と呼ばれたアブラハムを描いた旧約聖書の御言葉を与えられています。
先週の御言葉で、主なる神の約束に従って信仰の旅に出たアブラムは、そのすぐ後エジプトに移動し大失敗をしたり(12:10~20)、大きな争いに巻き込まれたり(13:1~14:16)、と散々な目に会いながら歩んでいました。そのアブラムに主なる神様が再び現れたのが、本日の御言葉で描かれている場面です。
主なる神様の「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。(1節)」この語りかけにアブラムは回答いたします。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。(2、3節)」このように、アブラムは約束の子孫が未だに与えられていない事実を訴えます。しかし、実は、「家の僕が跡を継ぐことになっています」このアブラムが口にした跡継ぎについての手続きは、彼の生まれ故郷であるメソポタミアの慣習であったのです。アブラムは、生まれ故郷と父の家を離れたにもかかわらず、依然としてそこにあった慣習に従って歩んでいたのです。物理的に父の家を離れていても、心理的にはそこにとどまっていたわけです。それは、不信仰であったからです。
ですから、主なる神は、「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。(4節)」、とこの世の慣習でなくて、ご自身の御心を示されたのです。これはこの世の慣習で理解するのではなく、信仰によって受け取るしかないものだからです。
アブラムは、この世のしきたりに従って跡継ぎを見出しました。しかし、主なる神は信仰による跡継ぎを見出すことを求めておられるのです。
そして、ここで主なる神様は、不信仰なアブラムに、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる。(5節)」と言われました。
ここで示されているのは、まず神様の力です。天も星も主なる神様の被造物です。
この時代は、町の灯りなどありませんから、夜になると真っ暗で、空の星全体をくまなく見渡すことができたでしょう。その全てが神様の創造の御業によって輝いているのです。
もう一つは人間の弱さです。アブラムは、その星を数えることなどできなかったでしょう。
空の星を数えることさえできない者が、どうしてそれを創造された全能者を疑いえましょうか。どうして、弱い人間の力や慣習ばかり意識して、神の力に目を留めないのでしょうか。
ここにこそ不信仰の原点があります。この不信仰の原点に問いかけ、それを打ち砕くものが、この満天の星なのでありましょう。
さて、この神様の問いかけに対するアブラムの回答が示されます。
「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(6節)」
不信仰であったアブラムが、今信仰者に変えられました。この場面は、この世の慣習に縛られ、右往左往していたアブラムが、神の言葉によって、その束縛から解放された瞬間といえましょう。
しかし、決してアブラムが優秀だったわけではありません。この信仰に導いてくださったのは、主なる神様だからです。これは、やがて「信仰義認」といわれる真理、すなわち、信仰によって救われるという神様の約束の根拠になった非常に重要な御言葉であります。
義というのは、神様の前で正しい、と宣言されることです。しかし、アブラムは、神様の前に全然正しくありませんでした。むしろ不信仰でポンコツでした。それでも、神の言葉を信じた、その一点で正しい、と認めていただいたのです。これが信仰義認なのです。他に何もなくてもいいのです。ただ信仰さえあれば救われる、これが聖書を貫く真理であり、これが福音です。
本日は、「天を仰げ~アドベントの信仰~」という説教題が与えられました。
最後に、このアドベントの信仰について、本日の御言葉から二つ教えられて終わります。
一つ目は、1節にあります主なる神様の「わたしはあなたの盾である」この宣言です。
聖書でこの言葉は、ここで初めて使われていますが、実は、創世記ではここだけなのです。
そして、次に使われるのは、創世記から始まるモーセ五書と呼ばれている五つの書物の最後にあります申命記で、しかも、そのエピローグ部分にあります、モーセの告別説教の最後の言葉なのです。「主はあなたを助ける盾、(申命記33:29)」これが地上で語ったモーセの最後の言葉になったのです。
すなわちこういうことなのです。
神の民イスラエルの最初の人であるアブラムに与えられた「わたしはあなたの盾である」、これは、アブラムによって手っ取り早く簡単に理解されたのでも、告白されたのでもないのです。
これが本当に理解されたのは、その数百年も後のことであり、アブラハム、イサク、ヤコブ、そして出エジプトの出来事を通して、モーセ五書の最後の最後に、モーセの口を通して信仰告白された、ということです。「主は我が盾」これは、モーセ五書の信仰告白の序論であり結論なのです。人の信仰より、神の宣言が先である、そして、人は、長い年月(ねんげつ)をかけて信仰の歩みを続けてようやく神に回答できる、その時それが信仰告白となるわけです。実に、信仰告白とは、何代にもわたって変わらぬ神の恩恵の賜物であり、信仰の継承によって生み出される信仰の言葉なのです。主を待ち望むアドベントの信仰は、今私どもが「主は我が盾」この信仰を継承することに他なりません。
二つ目、その信仰は「天を仰ぐ」ことである、ということです。
主なる神は、「天を仰げ」とアブラムに言われました。どうしてでしょうか。
アブラムがうつむいていたからです。恐れと不安にうつむいていたからです。うつむくのではなくて、天を仰げ、ということです。それは、うつむいて、地上の可能性と慣習に縛られるのではなく、天を仰いで神の可能性と御言葉に目を向けることです。この世の可能性ではなくて、神の可能性に立つ、これが信仰なのです。そして、ここにこそ、私たちキリスト者の歩みがあるはずです。
それでも尚、私たちは疑う者であります。迷う者であります。思い悩む者であります。自ら失敗するだけでなくて、周りの状況に右往左往する者であります。そして、挙句の果てに、行き詰まり、神様どうしてですか、と嘆く者であります。しかし、その魂の叫びを神様に向けた時、「天を仰げ」この御言葉が与えられております。天を仰ごうではありませんか、天を仰ぎ神の可能性と神の御言葉に立とうではありませんか。これが主を待ち望むアドベントの信仰です。