2020年12月06日「祝福の源~アドベントの希望~」

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祝福の源~アドベントの希望~

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
創世記 11章27節~12章4節

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聖句のアイコン聖書の言葉

テラの系図は次のとおりである。テラにはアブラム、ナホル、ハランが生まれた。ハランにはロトが生まれた。ハランは父のテラより先に、故郷カルデアのウルで死んだ。アブラムとナホルはそれぞれ妻をめとった。アブラムの妻の名はサライ、ナホルの妻の名はミルカといった。ミルカはハランの娘である。ハランはミルカとイスカの父であった。サライは不妊の女で、子供ができなかった。テラは、息子アブラムと、ハランの息子で自分の孫であるロト、および息子アブラムの妻で自分の嫁であるサライを連れて、カルデアのウルを出発し、カナン地方に向かった。彼らはハランまで来ると、そこにとどまった。テラは二百五年の生涯を終えて、ハランで死んだ。主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にしあなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。創世記 11章27節~12章4節

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説教の要約「祝福の源~アドベントの希望~」創世記11:27~12:4

本日は、信仰の父と謳われたアブラハムの召命の出来事を通して、再臨の主を待ち望む私たちのアドベントの希望について教えられたいと願います。

神様から召命をいただく以前のアブラハムは偶像崇拝の家に連なり「他の神々を拝んで」いました(ヨシュア24:2)。また、アブラハムの妻であったサライは不妊の女でした(11:30)。多くの子孫を残せなければ、他の氏族に滅ぼされてしまう当時、これは深刻な問題でした。すなわちアブラハム側には、彼の信仰を含めて、神様に召命を受ける要素など一つもなかったのです。

しかし、このアブラハムを「あなたは生まれ故郷父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。(1節)」と召命した主なる神は、彼を「祝福の源となる(2節)」といってはばかりません。ただ主なる神様の決定によって、祝福の源にされたということなのです。祝福の土台は神の決定なのです。

さらに、この祝福は神様とアブラハムとの一対一の関係だけではありません。「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う(3節)」、とこのように、この世との関係も含まれて祝福が語られるのです。すなわち、こういうことなのです。アブラハムは、今全てのものを放棄して出発する、しかし、それは決して真空状態で生活しなさい、ということではないのです。向かう先には、また違う社会があって、この世の人がいる、その関係の中で生きることが求められているのです。

偶像崇拝の土地と、偶像崇拝の家から出ていって新しい場所に行っても、そこにはまた他の偶像が待っているわけです。この世にある限り、偶像崇拝を続ける世界と無関係に生きることは出来ないのです。しかし、その只中で、「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」、この約束が与えられているのです。これが非常に大切です。アブラムに与えられた神様の約束は、決して浮世離れしたものではないからなのです。むしろ、神様が「わたしが示す地」といわれたその新しい場所の現実に即したものなのです。

すなわち、これは、その現実の中で、偶像に取り囲まれても、「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」、とこのように偶像から立ち返る者は必ず起こされるという約束になっているのです。これは、偶像崇拝の町でも尚、その現実の中で神様の救いが実現する約束なのです。

さて、これらの神様の召命に対してアブラハムは一言も語っておりません。「アブラムは、主の言葉に従って旅立った(4節)」、これが神の約束に対するアブラハムの回答の全てになっています。アブラハムには、言いたいこと、聞きたいことが山ほどあったでしょう。しかし、彼は黙って旅立ったのです。この沈黙がアブラハムの信仰の姿です。そして、実にここから、神の民イスラエルの歴史が始まったのです。新約聖書は「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。」この言葉から始まります。これが本日の御言葉のアブラハムの召命の出来事の結論であり、アブラハムに対する神様の約束の実現とも言えます。

このアブラハムの召命の御言葉から私たちに3つの大切な真理が示されます。

1つ目、「わたしはあなたを大いなる国民にし(2節)」、この大いなる国民の「国民」という言葉は、通常イスラエルの民を示すヘブライ語の「アム」という言葉ではなくて、ユダヤ人にとっては厭わしい響きさえある異邦人も含まれる「ゴーイ」という言葉が使われているところです。

これは、このアブラハムへの約束の時点で、神様の祝福がイスラエルだけではなくて、全世界への広がりをもっていたということ暗示するもので、実は使徒パウロが、ガラテヤ書でこのことを詳しく説明しています(ガラテヤ3:7~9)。他の誰よりも旧約聖書に精通していたパウロは、神様がアブラハムに、「大いなる国民」、とあえて異邦人を含む言葉を用いて、祝福の源とされたことを見逃さなかったのです。それでパウロは、この御言葉を引用する時あえて、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される(8節)」とこのように言い換えております。もはや血肉とは無関係に、ユダヤ人であろうが異邦人であろうが、「信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されている」、これが、アブラハムに対する神様の祝福の最終的な広がりなのです。今や、イエスキリストを信じる信仰一つで、神の民への加入が約束されているということです。

 2つ目、本日の御言葉の最後の部分、「アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった(4節)」、この記事です。信仰の父も75年間は、偶像崇拝の家にあったということです。今、その家から出ていけ、と命じられているのですから。すなわち、ここで大切なのは、悔い改めて真の神に立ち返るのに、手遅れはないということなのです。信仰の父と謳われたアブラハムが、その老いた日に真の神に従った、とこのように聖書が言うのですから。

 75年間、偶像崇拝の家にあった、これはまさに私たちのこの国のいたるところに見られる現実ではありませんか。しかし、実に、その偶像崇拝の家にも、神の救いの手は伸ばされている、ということです。教会で求道者、と言われています多くの方が、家に仏壇があったり、神棚があったり、そう言う環境で生活されています。しかし、それが救いのハンディになることはないのです。主なる神様は、そこにこそ救いの手を差し伸べておられるからです。神の救いに、この世のしがらみも、年齢制限も、他のどのような障害もないのです。地上の歩みが終わるまで、再び主イエスが来られるその日まで、「今や恵みの時、今こそ救いの日」、この御言葉は、全ての人の目の前で立ち上がっております。

 最後に3つ目、この救いは、何の希望もないところにもたらされました。この世的には呪われ、希望を持てない夫婦から神様の救いは始まったのです。これが聖書を貫く神の救いそのものです。

 そして、この救いの法則を見事に歌いきったのが、主イエスを出産するために用いられたナザレの乙女でした。本日招きの詞で与えられ、この礼拝の私たちの最初の賛美として主なる神様におささげしたマリアの賛歌です(ルカ1:46~55)。これは、乙女マリアが、受胎告知を受けた直後に歌ったもので、この時彼女はおそらく13歳くらいの少女でした。その少女に処女降誕という前代未聞の役割が与えられ、聖霊によって身ごもったのです。しかし、この世的に見れば、どうだったでしょうか。

この世の視点では、誰の子かわからない子どもを身ごもったマリアには希望はありませんした。姦淫の罪を着せられて石打の刑で殺されるか、生涯後ろ指を指されてこそこそと生きていくか、恐らくそのいずれかが、この可憐な少女の頭を支配しようとしていたでしょう。

しかし、そこでマリアは、神を賛美しているのです。これこそが、アドベントの希望ではありませんか。希望がないところに、信仰によって希望を見る、これが主イエスを待ち望むアドベントの希望です。不妊の女といわれ、希望の一つも持てなかったアブラハムとサラの夫婦から一つの国民がおこされたように、そして、希望を持てるはずのない少女からこの世の救い主が誕生したように、希望のないところに尚、希望が生まれるのです。私たちは、それぞれ遣わされた場所で、このアドベントの希望に立とうではありませんか。そこにこそ、祝福の源はあります。