2020年11月29日「終章Ⅲ・何の妨げもなく」
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終章Ⅲ・何の妨げもなく
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- 新井主一 牧師
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使徒言行録 28章23節~31節
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聖書の言葉
そこで、ユダヤ人たちは日を決めて、大勢でパウロの宿舎にやって来た。パウロは、朝から晩まで説明を続けた。神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとしたのである。ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとはしなかった。彼らが互いに意見が一致しないまま、立ち去ろうとしたとき、パウロはひと言次のように言った。「聖霊は、預言者イザヤを通して、実に正しくあなたがたの先祖に、語られました。『この民のところへ行って言え。あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。』だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです。」パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。使徒言行録 28章23節~31節
メッセージ
説教の要約「終章Ⅲ・何の妨げもなく」使徒言行録28:23~31
2年7か月の間、導かれてきました使徒言行録講解は今日が最終回です。
「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。(30、31節)」
このように、使徒言行録は、最後に、この後のパウロの消息を簡単に記して幕を閉じます。
使徒言行録は、今まで起伏に富んだ福音宣教の記録を示してきました。
ですから、この最後の言葉に、まるで映画のエンドロールを、目で追っているかのような、物足りなさを感じる方もおられましょうか。しかし、実は、その物足りなさが非常に重要なのです。
そのことを三つの点から申し上げて、この使徒言行録講解を終わります。
一つ目は、パウロの消息についてです。ここに、「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで」、とあります。これは言い換えるとパウロの地上での歩みは残り二年であった、ということです。
パウロは、この2年後に殉教した、と伝えられておりまして、恐らくその通りでしょう。この使徒言行録が執筆された時には、これを書いたルカは勿論、キリスト者であるなら、誰でもパウロの殉教をよく知っていたはずです。それは、勇ましく雄々しい死であったと思います。しかし、使徒言行録はそのパウロの殉教について記録しておりませんし、その後書かれた、他の新約聖書の御言葉も一切興味を示しておりません。どうしてでしょうか。
不要だからです。福音が、地の果てまで響き渡って行く姿を描く使徒言行録、そしてその後の福音宣教にとって、パウロがいかに死んだか、という情報は必要なかったのです。むしろ、どのように生きたかが必要であったのです。
この使徒言行録を受け取った教会は、迫害の剣に囲まれ、明日知らぬ命にさらされて福音宣教に仕えていたのです。そんな彼らに、その死に様まで良く知られている殉教者パウロが、風前の灯火ともいえる状態で、最後まで「神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」、この伝道者の生き方が示されたのです。教会は、この姿に奮い立ったでしょう。
しかし、それだけではありません。むしろもっと大切なのは、使徒言行録にとって、そしてこれを執筆しているルカや、これを与えられたキリスト者にとって、天国は極めて近かった、ということなのです。地上に残された者にとって、パウロも、その後教会から天に移された殉教者も、決して遠い世界に行ったわけではなかったのです。彼らは、もはや地上には見えないが、非常に近くにいる、同じ神の国で生きている、ただ生き方が変わっただけである、彼らは、当然のことのようにこの信仰に立っていたのです。ですから、最初期の教会は、どうやって死んだか、と胸を痛めてうつむくのではなくて、むしろ、どうやって今生きているのか、その希望に燃えて天を仰いだのです。その場合、パウロの殉教の記録など、もはや必要ないのです。
私たちはどうでしょうか。私たちの群れから、天の故郷に行った兄弟姉妹が、どうやって今生きているのか、と天を仰いでいますでしょうか。やがて彼らと再開する希望に胸を躍らせていますでしょうか。天国は近いでしょうか。これが真の信仰者だけに与えられる喜びのはずです。
2つ目、この節の直前で、イザヤの召命の御言葉が引用されていることとの関係です。
旧約時代、イザヤに語られた、「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない(26節)」これが、この使徒言行録のエピローグに置かれていることが非常に重要なのです。それは、使徒言行録以降の、新しい福音宣教の幕が開ける時に、この言葉が与えられているからなのです。これは、イザヤが、奮い立って、預言者として今から遣わされる、その時に与えられた言葉です。しかし、その内容はなんとイザヤの理想とかけ離れていたことでしょう。「聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない~わたしは彼らをいやさない」イザヤは、この民の許に遣わされたのです。
私たちの福音宣教も、これと同じである、ということなのです。今使徒言行録は、ページを閉じる、しかし福音宣教が終わったわけではありません。この使徒言行録の続編は、その後の教会に託され、今私たちはその最前線におります。その私たちにこの言葉が与えられているのです。
つまり、福音宣教とは、「聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない」この頑なな民の許に福音を届ける、ということなのです。使徒言行録のエピローグは、私たちの福音宣教のプロローグになっているのです。私たちは、希望と情熱をもって福音宣教に仕える、しかし、そこには頑なな民が待っているのです。
しかし、3つ目、それでも尚、そこに妨げはない、ということです。実は、これはこの使徒言行録講解の第一回目で教えられたことなのです。最後の31節「全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」実は、この節のギリシャ語の本文を読みますと、順番が少し違いまして、「全く自由に何の妨げもなく」、これが最後に来るのです。使徒言行録の最後の言葉は、「何の妨げもなく」、これなのです。
これは一体どういうことでしょうか。現にパウロは今鎖につながれております。囚人ですので、活動の範囲さえ制限されています。また、私たちも、「見るには見るが、決して認めない」、この頑なな民のところに遣わされる、むしろ妨げだらけではありませんか。それでも尚、「何の妨げもなく」、とこのように使徒言行録は、今あっさりとページを閉じるのです。どうしてでしょうか。
今日使徒言行録講解を終えます私どもには、もうその解答は与えられております。聖霊なる神が福音宣教の主だからです。だから、「何の妨げもなく」、と約束して使徒言行録は終わるのです。
それでも尚、私たちの目に妨げが映るのなら、それは私たちが、私たちの弱さの中に福音宣教を閉じ込めているだけの話です。妨げがあるとしたら、それは、私たちが作り出しているだけなのです。福音宣教にマイナス要素はないからです。
この2年7か月の間、私たちには多くの困難が与えられました、試練も悲しみも与えられました。しかし、それでもなお、私たちの教会が福音宣教の最前線に立っているのはどうしてでしょうか。
それは、聖霊なる神様の導きによって、私たちが今前進しているからです。
本日からアドベントに入りました。今年は、コロナ禍にさらされ、その恐怖が拡大する中で、アドベントを迎えました。今、その私どもにとって、「全く自由に何の妨げもなく」、こんなに突き刺さる言葉がありましょうか。このアドベントにあって、この世の暗闇の中で、私たちは救い主を待ち望み、この週も福音宣教に仕えます。頑ななこの世に遣わされます。そこには多くの困難がありましょう。
しかし、「何の妨げもなく」、と御言葉が約束します時、この世の暗闇さえも希望の光に満ちています。それは、この使徒言行録全体を貫くキリストの御言葉の光です。