2020年11月01日「生きるために食べよ」
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生きるために食べよ
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
使徒言行録 27章27節~38節
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聖書の言葉
十四日目の夜になったとき、わたしたちはアドリア海を漂流していた。真夜中ごろ船員たちは、どこかの陸地に近づいているように感じた。そこで、水の深さを測ってみると、二十オルギィアあることが分かった。もう少し進んでまた測ってみると、十五オルギィアであった。船が暗礁に乗り上げることを恐れて、船員たちは船尾から錨を四つ投げ込み、夜の明けるのを待ちわびた。ところが、船員たちは船から逃げ出そうとし、船首から錨を降ろす振りをして小舟を海に降ろしたので、パウロは百人隊長と兵士たちに、「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない」と言った。そこで、兵士たちは綱を断ち切って、小舟を流れるにまかせた。夜が明けかけたころ、パウロは一同に食事をするように勧めた。「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。そこで、一同も元気づいて食事をした。船にいたわたしたちは、全部で二百七十六人であった。十分に食べてから、穀物を海に投げ捨てて船を軽くした。使徒言行録 27章27節~38節
メッセージ
説教の要約「生きるために食べよ」使徒言行録27章27節~38節
本日の御言葉は、嵐の海の中で、主イエスを信頼し、信仰に立ったパウロが、その状況でパンを裂いて食べた場面が記録されています。「こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。(35節)」実に、この節は、嵐の海での出来事のクライマックスと言えます。そして、ここには、主の晩餐の定型句が、ずらりと並んでいて聖餐式を思い浮かべるような記事です。勿論、この場面を聖餐式としてしまうのは、拡大解釈でありましょう。
しかし、この嵐の海の船の中で尚信仰に立ち、祈り続け、礼拝をやめなかったパウロの神礼拝のクライマックスに、このパン裂きがあるのです。
そして、このパン裂きで、船内の空気が入れ替わったかのようになり、パウロだけでなく、この船の全員に命の活力が戻ったように描かれています。
実は、ここで大切な表現が二つあるのです。
一つは、「そこで、一同も元気づいて食事をした(36節)」、これです。
ここで、気を付けなければならないのは、食事をして元気になった、或いは食事をしたから元気になったのではないということなのです。順序が違うのです。一同も元気づいて・食事をしたのです。まず、喜びが先にあって、その後食事をした、と聖書は言うのです。
面白いことに、食べる前に、みんな元気になっていたということなのです。
それだけパウロのパン裂きが、喜びにあふれていたからでありましょう。
この場面は聖餐式ではありませんが、聖餐を受ける者の喜びが、どれだけ大切かが描かれています。実に、私たちが聖餐式でパンを裂くとき、まだ聖餐に与れず、食べることができない求道者や子どもたちに、その喜びが伝わることが大切なのです。信徒の喜びが本当であるなら、求道者や子どもたちに必ず伝わります。彼らが、その喜びを目撃し、体験した以上、やがて自らも食べたいと思うのではありませんか。
もう一つは、「船にいたわたしたちは、全部で二百七十六人であった(37節)」、この部分、実は聖書的に大切な言葉が使われているのです。それは、プシュケー(ψυχή)という言葉で、通常、魂、と訳されている言葉なのです。この部分直訳しますと「船の中の私たち全ての魂は276であった」、とこのようになるのです。
大切なのは、今初めて乗員の数が示された、ということなのです。実に、「一同も元気づいて食事をして」、と彼らに生気が戻った今、ここで初めて、276の魂という表現で、この船の乗員の数がカウントされているのです。
ミラの港で、この船に乗り換えてから(6節)、ずっとこの船の中には276名の者がおりました。しかし、一体その中で、何人の者が本当に生きていたでしょうか。或いは、パウロと、その仲間であるルカとアリスタルコの3人だけであったのではないでしょうか。他の273名は、肉体は生きていても生きる気力を失い、死を待つだけの状態でした。
しかし、パウロがその神礼拝の頂点で、大喜びでパンを裂いて、神に感謝した時、その場にいた人々は、その喜びを目撃したのです。その喜びを体験したのです。その時、もはや生ける屍ではなくて、喜んでパンを食べる者とされたのです。そして、その時、全ての魂は276であった、とこのように聖書は報告するのです。
ここでも、この地上における命の大切さが記されています。
昨今、自ら命を絶ってしまう方が、特に若い方の間で増えています。その多くは、生きているのが辛いからではないでしょうか。この船の中にいて、神の言葉と無関係に生きていた273名は、まさに生きることさえ辛くなった人々の姿です。嵐の海に希望を奪われた彼らは、彼らが頼りにしていたこの世の糧で生きることも放棄し、14日間何も食べられませんでした。
すなわち彼らは死と隣り合わせになっただけでないのです。自らも死に向かっていた、ということです。その彼らに、パウロは、「生きるために食べよ」といったのです。
そして、大切なのは、まずパウロが、率先して生きるために食べた、ということです。
パウロは人々に、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです、と言いました。しかし、誰よりも先にパンを食べ始めたのは、他でもないそのパウロであったのです。(35節)。大切なのは、まず私たちキリスト者が、喜んでパンを取ることです。
273名の人は神の言葉で生きていませんでした。彼らはパンだけで生きていた。
では、この嵐の海のどん底でパウロは、その彼らに神の言葉で生きるように説得したでしょうか。命の言葉であり、信仰の灯である神の掟を説教したでしょうか。
いいえ、パンを食べるように説得したのです。パンだけで生きていた人々がパンを食べられなくなった時、パウロは、再びパンを食べることを勧めたのです。そして、誰よりも先に自らがパンを食べたのです。これが生きる希望を失ったこの世の人に対するキリスト者の姿です。
私たちはキリスト者です。御言葉に立って生きています。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』この主イエスの言葉に立っております。
しかし、信仰を持たない方が、希望を失い倒れこんだ時、「神の言葉で生きよ」、とどうしていえましょうか。その時大切なのは、まず私たちがパンを取ることです。パンを食べることです。私たちキリスト者が、この世の糧を大喜びでいただいくことです。喜びにあふれて食事をして、喜んで生活をすることです。御言葉によって生きることと、この世の糧を喜ぶことは矛盾しないのです。
むしろ、本当に御言葉に立って生きる時、この世で与られる全てのものが神の祝福と変わるのです。これが、この暗闇の船内で、真っ先にパンを裂いて食べ始めたパウロの姿です。
パウロほど福音宣教に仕えた者はいません(Ⅰコリ15:10)。パウロは、どこにいても福音を語ることをやめなかったのです(Ⅰコリ9:16)。しかし、今パウロの口は、パンを食べているのです。その口は、言葉ではなくて、喜んでパンを食べる、この福音に生きる姿を通して、福音を語っているのです。パンを食べられなくなった方と共にパンを食べるのがキリスト者です。
本日私たちは、神がアブラハムに与えられた約束の言葉で礼拝に招かれました。
「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る(創世記12:3)」この神の約束に立って、信仰の父アブラハムは、祝福の源として、世に出ていきました。私たちも同じです。祝福の源です。
私たちは神に祝福され、祝福の源として、今日ここから遣わされます。
大いに喜びながら、世に出ていこうではありませんか。
その時、希望を失ったこの世に、「生きるために食べよ」といえるのです。