2026年05月24日「聖霊に満たされる」

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聖霊に満たされる

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
使徒言行録 2章1節~14節

聖句のアイコン聖書の言葉

1節 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
2節 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
3節 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
4節 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
5節 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、
6節 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
7節 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。
8節 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。
9節 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、
10節 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、
11節 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
12節 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。
13節 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。
使徒言行録 2章1節~14節

原稿のアイコンメッセージ

説教の要約

2026・5・24「聖霊に満たされる」使徒言行録2:1〜13

 今朝はペンテコステ礼拝として主日礼拝をおささげいたしますので、コリント書の連続講解説教を一度中断して、使徒言行録の聖霊降臨の場面から御言葉が与えられています。

このペンテコステの象徴的な出来事は、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった、(2、3節)」、この衝撃的な事件です。しかし、聖書の本文を冷静に見ます限り、この出来事の中心になっているのは、「激しい風」でも、「炎のような舌」でもありません。

むしろ、「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした(4節)」、この聖霊に満たされた人たちがとった行動の方に重点が置かれています。これから周りの人々の関心は、イエスの弟子たちが、「ほかの国々の言葉で話しだした」ことであって、「激しい風」や、「炎のような舌」にはまったく興味が示されていないからです。ペンテコステの日に天から降った聖霊は、彼らに「ほかの国々の言葉」で語らせたのです。信仰共同体として集まった信徒への最初の聖霊の賜物は、言葉を語る、という賜物であったのです。そして、この彼らに「ほかの国々の言葉」で語らせた、という聖霊の御業が、このペンテコステの中心的な出来事なのです。

聖霊が降った時、降りっぱなしで何も結果が現われないということはありません。聖霊の力は、雷のように音は派手で人々を驚かせるが、大地に落ちて終わってしまうようなそういう力ではないのです。聖霊が降ったところには、キリストの言葉が実現するのです。実に聖霊のお働きというのは、人を用いてキリストの言葉を語らせ、罪人を悔い改めへと導かれることなのです。

この出来事を目撃したユダヤ人たちには、2通りの反応が見られました。それが、「人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。(12、13節)」この部分です。

このように一方は「いったい、これはどういうことなのか」、すなわち、この不思議な出来事の意味を知りたいとする人たちです。他方は、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」、このように嘲笑って相手にしようとしない人たちです。しかし、今確かに聖霊が降って一同は聖霊に満たされ、世界中の言葉で福音が語られたのです(7〜11節)。力に満ちた福音宣教の第一歩が示されたのに、その反応は極めて地味であったのです。駆けつけた人の一人でも聖霊に満たされたでしょうか、一人でもその出来事を見ただけで即洗礼を決意しましたでしょうか。否です。

つまり、集まってきた人が、わけの分からないまま魔術的に、自動的にキリストを信じたわけではないのです。そうではなくて、この後、「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。(41節)」、と記録されていますように、ペトロを通して語られる御言葉の説教によって、彼らは悔い改めて信じることができたのです。御言葉が解き明かされて、はじめて彼らは悔い改めて、洗礼を受けたのです。ですから、このペンテコステの出来事の中心を貫いている聖霊の力は、得体のしれない不思議な力ではなく、言葉の力、しかもキリストの言葉の力なのです。

このペンテコステの御言葉から2つの真理が引き出されます。

一つは、教会の誕生、という点です。新約時代のキリスト教会は、この聖霊降臨の出来事から始まった、とよく言われます。そして、その最初の聖霊の賜物は言葉であったのです。さらに、それは、「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした(4節)」とありますように、聖霊に満たされた時、信徒は全員、「神の偉大な業を」、キリストの言葉を聖霊が語らせるままに語ったのです。彼らが望む、望まないとは無関係に、聖霊の働かれるままに語らざるを得なかった、神のわざを、キリストの言葉を。実に、それが教会の誕生のその産声であったわけです。

教会は、人間が集まって計画し、教会組織を作り、立地や予算を決めて建てられていったのではありません。そうではなくて、聖霊の力のままに言葉によって生まれたのです。

大切なのは、この教会の誕生を私たちは受け継いでいるかいないかです。教会で、或いは私たち自身の中で御言葉以外のものが幅を利かせていませんでしょうか。もしあるのであれば、それが福音宣教の妨げなのです。あるいは、私たちは、御言葉には力がある、これを大真面目に、真っすぐに信じていますでしょうか。もし信じているのであれば、私たちの弱さや貧しさのようなものは、問題ではありません。御言葉の力、そして聖霊の力は、私たちの弱さに左右されるようなそんな柔なものではないからです。むしろ、弱い私を強くする、それが御言葉の力、聖霊の力であります。

さらに二つ目、教会はその誕生の最初に全世界の言葉で福音を語る姿を現した、と言うことです。世界宣教は決してある程度の規模になった時に生まれたビジョンではなかったのです。まだ組織もされていない、信仰生活の使信や、その類の指導書もない、教理さえない、最初の最初にまず教会はキリストの言葉を通して世界宣教の幻を語ったのです。教会の誕生と、世界宣教の幻とは同時的なのです。

もともと、ペンテコステ・五旬祭というのは、7週祭と呼ばれていましたユダヤの初穂の祭りでした。この祭りは、刈り入れが保証されることを信じ、感謝する祭りでした。このペンテコステの出来事はまさに、世界伝道の初穂を与え、同時に、刈り入れを、その大きな収穫を保証するものであったのです。驚くべきことに、教会は誕生と同時に、世界宣教の保証まですでにされていたのです。

それは、私たちではなく、聖霊ご自身が福音宣教を始め、推進し、完成されるからです。そして、現在、その聖霊が2千年前と変わったわけではありません。全く同じ聖霊が今降っている、そして聖霊が降ったのなら必ず御言葉によって悔い改めと信仰が与えられるはずです。悔改めるというのは、後悔したり、反省したりすることではありません。新しく生きることです。神の国に生きることです。永遠の命の恵みの中を生きることです。それは聖霊に満たされる、すなわち御言葉に満たされることです。ユダヤの三大祭は、この五旬祭、過ぎ越し祭、仮庵の祭りでありました。しかし、彼らは、形式的信仰によって神との関係を失っていました。祭りが記念日のように祝われていたのです。

私たちキリスト教の3大祭りは、クリスマス、イースター、ペンテコステであると言えます。これらは過去起こった出来事の記念日ではありません。今も主なる神が私たちの只中で働かれている現実です。クリスマスは、インマヌエルである主がともにおられる現実、イースターは、私たちが今永遠の命に生かされている現実、ペンテコステは聖霊が今この礼拝において下り私たちが聖霊に満たされている現実です。私たちは、聖霊が語らせるままに、この私たちの国の言葉で、私たち一人ひとりの小さな口で神の偉大な業を語り続け、福音宣教に勤しもうではありませんか。その時、この世は私たちを新しい酒に酔っている程度に、嘲笑うかもしれません。キリスト者は最初からそのように笑われたのですから。しかし、私たちは酒に酔っているのではなく、聖霊に満たされているのです。

パウロは、次のように謳います。「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。(エフェソ書5:18、19)」。ここでは、聖霊に満たされることと賛美との一体性が明確にされています。私たちは、聖霊に満たされて歌いつつ、福音宣教に仕えていきたいと願います。