復活の朝に
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- 新井主一 牧師
- 聖書
ルカによる福音書 23章56節b~24章12節
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聖書の言葉
23章56節〜24:1 婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。
2、3節 見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。
4、5節 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。
6、7節 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか
8節 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。
9~11節 そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。
12節 しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。
ルカによる福音書 23章56節b~24章12節
メッセージ
説教の要約
「復活の朝に」ルカ福音書23章56b〜24章12節
主イエスの復活の朝、怯えて隠れていたイエスの弟子たちとは正反対に、「婦人たちは、準備しておいた香料を持って墓に行った」、と聖書は凛々しくも勇敢な女性たちの姿を記録しています。
しかし、当然のことながら彼女たちはイエスの遺体を見つけることはできませんでした。すると天使たちが現れて「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。(5節)」、とこの女性たちに問いかけます。彼女たちは、熱心でした。しかも冷静で理性的でした。しかし、熱心であっても冷静であっても、復活者を死者たちと一緒くたに探すのなら絶対見つからないのです。その場合、せいぜい、石が転がしてある空の墓くらいしかお目にかかれない、聖書はそういっているのです。
それゆえここで、天使たちは婦人たちに復活者を見出すための道筋を示します。「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか(6、7節)」、このように、天使たちは、婦人たちに主イエスの言葉を提示いたしました。そして実にこれが、復活者を見出す唯一の道であり、まさに彼女たちの忘れていた最も大切なものは主イエスの言葉なのです。キリストの言葉によらなければ、誰一人復活の主を見出すことは出来ないのです。そして、彼女たちが、「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」、この十字架と復活の宣言であるキリストの言葉を思い出したその時、確かに復活者を見出したのです。彼女たちは空の墓によっては、何もわからずに途方に暮れるしかなかった(4節)。しかし、キリストの言葉によって、復活者を今見出しているのです。
ところが、この時、復活の主は、彼女たちの目にはまだ現れていません。彼女たちは、その肉眼で復活者を確認していないにも関わらず、主イエスが復活されたことを悟ったのです。
つまり、復活者を見出すというのは、この目でナザレのイエスが生き返ったことを確認する作業ではないのです。そうではなくて、御言葉によって、確かに主イエスが復活されたことを信じること、これが復活者を見ることです。それゆえに、まだ見ぬうちに、この女性たちは、復活の主イエスを証するために、ここから遣わされるのです。彼女たちは、まだ肉眼では見ぬうちに、復活の主の目撃者として機能してしまうのです。
もし、生き返ったナザレのイエスを確認できなければ復活者を信じられないのなら、キリスト教は成り立っていません。聖書の記録によりますと、主イエスが復活されて天に昇られるまでの40日間で主イエスをその目で確認できたのは500人余りです(Ⅰコリント15:6)。二人三人の証言で真実が裏付けられたこの時代でありますので、確かにこれは決定的なおびただしい証人の数です。ところが、それ以後のキリスト者は、肉体の目では主イエスを見ることは出来ません。しかし、それでもなお、復活者を確かに見ているのです、御言葉によって。ですから、復活者を見る、確認する、これは御言葉によって私たちに与えられる神の力によるものであり、それを私たちは信仰と呼びます。
この信仰のゆえに、2千年後に生きている私たちも復活者に見えていることを確信できるのです。実に、それは、「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した」、これと全く同じ事態です。私たちが復活者を信じるのは、この時彼女たちが主の言葉によって、主イエスの復活を確信できたのと全く同じ状況なのです。
つまり、こういうことです。ナザレのイエスがよみがえった事実を目の当たりにしても罪人は復活を信じませんが、御言葉によって示された時、ナザレのイエスの復活に立ち会う必要もなく、キリストの復活を知るのです。これなのです。死者たちの中に復活者を捜すのではなく、キリストの言葉に復活者を見出す、これが本日の箇所で一番大切だと思われる真理です。
本日のこのイースター礼拝は、「復活の朝に」と言う説教題が与えられました。私たちは毎週の日曜日を主の日と呼びます。それは毎週復活の主イエスに見えるために礼拝に集められるからです。
さて、その後、「十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた(10節)」、と記録されていますように、婦人たちは、キリストの復活について、すぐに弟子たちに伝えました。しかし、「使徒たちは、この話がたわ言のように思われた」のです。この「たわ言」、という言葉は、言ってみますと、無駄話、冗談です。使徒たちは、全く信じなかったのです。ここでは、キリストの言葉が語られれば必ず復活を知るわけではない、という事実が同時に示されています。婦人たちは、キリストの言葉を与えられて復活を信じ、一目散に弟子のところへ駆けて行って熱心に伝えたのです。しかし同じキリストの言葉が与えられながら弟子たちは信じないどころか、彼らにとってそのキリスト言葉がたわ言、無駄話のように処理されるのです。何とも情けないキリストの使徒たちでありましょうか。しかし、この情けない彼らが、やがてキリストの復活の証人として用いられ、キリスト教会が建てられていくのです。
つまり、主イエスの復活が、臆病で情けない弟子たちを立ち上がらせた原点であった、ということです。そして、これは、最初の主イエスの弟子たちから全く変わっていません。主は、強い者ではなく、弱く貧しい者を用いられるのです。聖書は、弱い者が強くされ、反逆者が砕かれ、悔い改め、そして福音宣教に用いられた、その事実を隠さずに記録しています。その出発点が主イエスの復活なのであります。今日の聖書箇所は、弱かった弟子たちが立ち上がる、強くされる、そして福音宣教に明け暮れる、その出発点であり、伏線となる記録なのです。
私たちも、キリスト者という立場で過去を振り返って、恥じ入ることの方が多いのではないでしょうか。しかし、私たちは、恥ずかしい過去を嘆く必要はないし、嘆いてはならないのです。むしろ、その様な者を、主が今用いてくださることを喜ぶべきで、このことの方が、格段に大切であるからです。信仰の中心にいるのは私ではなくて主イエスであります。
繰り返すようですが、この箇所で大切なのは、「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている(7節)」、というキリストの言葉が、婦人たちに復活の出来事を悟らせたという事実です。この「三日目に復活することになっている」、の「なっている」という字は、ギリシャ語で「デイ(δεῖ)」と発音し、神様の予定を現わす極めて大切な言葉です。聖書に書いてある通りに必ず実現しなければならない、という神のご計画を示すとても強い言葉なのです。
実に私たちの信仰は、この神のご計画の上に立っているのではありませんか。今年の年間聖句でありますコヘレトの言葉の説教の途中で、「信仰は賭けである」、という立場についてお話ししました。クリスチャン作家であります三浦綾子さんも、「信仰は賭けである、私はキリストに賭けた」、その様に書かれていました。しかし、今日改めて宣言いたします。キリスト者である以上、信仰は賭けではありません。そうではなくて、神のご計画によって私たちに与えられた神の力です、神の決定です。イチかバチかの博打ではなく、「になっている」、と聖書が宣言する神の決定に立っている、それが信仰なのです。私たちに信仰が与えられた以上、私たちは救われることになっている、「復活することになっている」、この神の決定の中に入れられ、その決定が覆ることは決してないのです。キリストが「復活することになっている」のと同様に、私たちもまた「復活することになっている」、これが信仰の中心であり、神の決定です。麗しい主の日の朝ごとに、私たちの復活が確認される、私たちは、「復活することになっている」、なんと喜ばしい客観的事実ではありませんか。