2026年03月29日「苦難と祈り」

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苦難と祈り

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ルカによる福音書 22章39節~46節

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39節 イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。
40節 いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。
41節 そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。
42節 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
43節 〔すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。
44節 イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕
45節 イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。
46節 イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」
ルカによる福音書 22章39節~46節

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説教の要約

「苦難と祈り」ルカ福音書22章39〜46節

もう20年少し前に、メル・ギブソン監督のもとで「パッション」という映画が制作され大変話題になりました。その映画は、このゲッセマネの園の祈りの場面から始まります。映画全体の評価はキリスト者の間でも分かれますが、このメル・ギブソン監督の視点は鋭いと思うのです。この十字架の前夜の最後の祈りは、地上を歩まれたイエスキリストの生涯の縮図と申し上げても過言ではないからです。  

当然ではありますが、本日与えられた御言葉は、主の御受難を理解する上で極めて重要です。

 ここで主イエスは、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて祈り始められました(41節)。

そして、その主イエスの祈りの内容が示されます。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。(42節)」

 ここで、主イエスが、「この杯をわたしから取りのけてください」、と祈り求めています、「この杯」というのは、いうまでもなく十字架の死であります。実に、ここで、主イエスは、十字架の死を恐れて、それが取り去られることを願っていて、これは極めて人間的な願いです。しかし、主イエスの十字架の死というのは、神の永遠のご計画に基づくものであり、主イエスがこの世に来られた目的でもあります。ですから、誤解を招く表現であえて申し上げれば、これはドタキャンです。

しかし、祈りというのは、そういうものではないでしょうか。神のご計画にそのまま従うお利口さんが信仰者でしょうか。私は違うと思います。神のご計画と格闘するほどに、本当の願いをぶつける、これが信仰者の立場であるはずで、神様と本当の親子関係にあると信じて疑わないからこそ、それが可能になるのであって、ここにこそ私たちキリスト者の祈りの本質がございます。

 ですから、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」、この主イエスの切なる願いは、肉体的にも霊的にも弱い私たちを代弁する祈りでもあります。

 しかし、この願いには、同時に「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」、という祈りを伴うのです。この両者のせめぎ合い、相容れぬ祈りが互いに激しくぶつかり合う緊張関係、これこそが真の祈りであります。この節は、そのまま暗唱したいのです。苦難に遭うたびに、悲しみに耐えられない時に、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」、これ以上に響く御言葉はないからです。

さらに、ここで主イエスの祈る姿が、「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた(44節)」、と描かれます。ここで大切なのは、不安を抱くというのは罪ではない、ということです。

 イエスはその地上の歩みでただの一つも罪を犯されませんでした。主イエスは人間としてパーフェクトであったのです。そうである以上、苦しみもだえる、というこの動作が罪であるはずはないのです。これも、私たち信仰者にとって大きな慰めであり、極めて重要です。心配するとか、不安になるとか、そういう私たちの姿がそのまま不信仰であるなんて聖書は言わないのです。心配してもいいのです。苦しみもだえてもいいのです。そのために祈りが与えられているからです。

 さて、主イエスが祈りから弟子たちの許に戻られた場面が続きます。

 「イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。(45節)」、ここでは、主イエスと弟子たちが対照的に描かれることによって両者の乖離がいかに大きかったかが示されています。祈っていた主イエスに対して弟子たちは眠っていた、立ち上がった主イエスに対して弟子たちは倒れていた、このコントラストです。

 前述のように、主イエスと弟子たちとの間には、「石を投げて届くほど」の隔たりしかなくて、それは10メートルと離れていない距離でありました。しかし、この両者の乖離の大きさはどうでしょうか。

10メートルの距離でも果てしなく遠いこともあるのです。実に、信仰の世界で問われるのは、物理的な距離ではなくて、霊的な近さ遠さなのです。そして、それを超えるのが祈りなのです。何万キロ離れていても祈りがあればその距離は大きな問題ではない。しかし、目に見えるほど近くにいても祈りと無関係であれば、果てしなく遠くにいる。これが聖書全体に響いている信仰者の距離感です。

 私たち信仰者の交わりをつなぐものは祈りであり、祈りと無関係には成り立たないのです。

 さて、この眠っていた弟子たちに主イエスは最後に、「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」、と言われました。これが本日の御言葉の中心であり、そして枠組みでもあります。

 本日のこの受難週礼拝で与えられた説教題は「苦難と祈り」でありました。それは、「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」、ここに苦難に打ち勝つ祈りが極めて鮮やかに示されているからです。

 最後に、このことについて、三つの点で確認して終わります。

 一つは、ここで、主イエスが「なぜ眠っているのか」、と問いかけた上で、「起きて祈っていなさい」、と警告しているところの重要性です。この「眠っている」、という字は、もともとのギリシア語では「死ぬ」、という意味が強い言葉で、実際多くの場合「死ぬ」とも訳されている言葉です。逆に、「起きて祈っていなさい」、の「起きる」、という字は、「復活する」とも訳せる言葉なのです。つまり、苦難の時に祈るか祈らないかは、生きるか死ぬかの大問題である、これが、主イエスの警鐘であり、主イエスが、「起きて祈っていなさい」、と言われる時、必然的に祈りには永遠の命に生きる力が秘められているのです。

 二つ目は、本日の御言葉で、「祈りなさい(40節)」、あるいは、「祈っていなさい(46節)」、と繰り返されるこの「祈れ」という言葉は、ギリシア語では文法的に命令法で、その時制は現在形です。

その場合、それは継続した命令を示すのが文法的な決まりでありますので、より厳密に訳せば、ここは、両者とも「祈り続けなさい」、となるわけなのです。祈りは継続的に行われて初めてその力が発揮されるということです。ですから、苦難にあって初めて本気で祈るなんてことはよくあるのですが、むしろ順境にあっても逆境にあってもたえず祈り続ける、これが苦難に打ち勝つ祈りであるわけです。

 最後に三つ目、祈りこそは、苦難に打ち勝つどころか、神の子というこれ以上ない身分を保証する特権である、ということです。ここで、主イエスは、「父よ」、と祈り始めました。いうまでもなく、この「父よ」、というのは「アッバ父よ」を意味する言葉であり、私たちの言葉で言えば「お父ちゃん」くらいのニュアンスです。ユダヤの莫大な歴史的文献を調べたとき、後にも先にも、主なる神様を「アッバ父よ」と呼べたのは、主イエスだけなのです。そして主イエスは、私たちに「アッバ父よ」と祈ることを許してくださいました。これはパウロが、ローマ書のクライマックス部分である8章で見事に謳っています。「この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。(ローマ書8:14〜16)」、この「この霊」というのはいうまでもなく聖霊なる神様です。私たちが、「アッバ、父よ」と祈る時、必ず聖霊なる神様が、わたしたちが神の子供であることを証言してくださるのです。私たちは、祈ることによって、自分が神の子であることを確認する、それは決して私たちの思い込みではないのです。むしろ、極めて客観的に神様の側から私たちが神の子である、という保証が与えられているのです。

説教前の讃美歌138番の最初に「ああ主はたがため世にくだりて かくまでなやみをうけたまえる」、というくだりがございました。それは他でもないこの私のためなのです。

「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」、これは、この私の罪が赦され、神の子とされ、永遠の命に生かされるための、十字架のイエスキリストの祈りであります。