2020年09月27日「最後の説教Ⅲ-御言葉のままに」
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最後の説教Ⅲ-御言葉のままに
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- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
使徒言行録 26章19節~23節
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聖書の言葉
「アグリッパ王よ、こういう次第で、私は天から示されたことに背かず、ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました。そのためにユダヤ人たちは、神殿の境内にいた私を捕らえて殺そうとしたのです。ところで、私は神からの助けを今日までいただいて、固く立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきましたが、預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません。つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。」使徒言行録 26章19節~23節
メッセージ
説教の要約「最後の説教Ⅲ-御言葉のままに」使徒言行録26:19~23
私たちは、先々週から、この使徒言行録最後のクライマックス部分といえますパウロの最後の説教の御言葉に入っています。本日がその3回目です。
本日の箇所の最初にパウロは、「アグリッパ王よ(19節)」とアグリッパを名指します。今まで以上に、本日の御言葉は、そのままアグリッパに向けて語られているのです。
実は、これが大きなポイントになっていくのです。そのうえで、パウロは、先週の箇所で主イエスから伝道者の使命を与えられた彼の福音宣教の様子を短く語ります。
まず22節では、パウロの福音宣教の内容である、キリスト証言の枠組みが明確にされています。「預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません」この部分です。預言者たちやモーセ、これは何度も申し上げてまいりましたように、旧約聖書全体です。つまり、パウロの福音宣教は、旧約聖書から一歩もはみ出さなかった、ということです。これが大切です。そして続いて、パウロは、旧約聖書全体から一歩たりともはみ出さなかった、その福音宣教の具体的な内容を明確にしているのです。
それが、「つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。(23節)」この部分です。
これが、「預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと」、すなわち旧約聖書全体です。
メシアが苦しみを受け、これはキリストの十字架、死者の中から最初に復活して、これはキリストの復活です。つまり十字架と復活です。旧約聖書全体は、イエスキリストの十字架と復活を指し示すものである、ということです。丁度、家には土台がありますように、旧約聖書という土台の上に、キリストの十字架と復活という家が建っている、ということです。ですから、イエスキリストと無関係に旧約聖書を調べても、何の意味もないのです。
実は、復活直後のイエス様ご自身がこのことを言われています。
「そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。(ルカ24:25~27)」(ルカ24:44、ヨハネ5:39も参照)十字架の死から復活された主イエスが、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」のです。なんと説得力に満ちた聖書の証言ではありませんか。そして、実に、これと同じことをパウロは、今言っているわけなのです。彼は、旧約聖書から一歩もはみ出さずに福音宣教を続けた。その内容は、十字架と復活であり、この十字架と復活を旧約聖書から解き明かすこと、これが福音宣教である、今パウロはそう言っているのです。旧約全体が示す十字架と復活が、「民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。(23節)」とこのように、そのままパウロの福音宣教の中で実現していたのです。
では、ここで言われています光とは何でしょうか、福音と言い換えることも、救いとか永遠の命と言い換えることも可能でしょう。しかし、究極的に申し上げますと、光とは、主イエスキリストご自身です。キリストこそが光なのです。旧約という強固な土台の上にキリストの十字架と復活という家が建っている、この十字架と復活のキリストこそが光なのです。この光に照らされないで旧約聖書を紐解いても意味がないのです。
それどころか、エルサレムの大祭司たちは、旧約の上に、自らの権利と繁栄を求めておりました。パウロが聖書から一歩もはみ出さずに、十字架と復活を宣教していたのに対して、彼らは自分たちの都合のいいように聖書を利用していたのです。その象徴がエルサレム神殿なのです。紀元前からのヘロデ王家の大事業であり、今まさに完成間近のエルサレム神殿。
だから尚更、アグリッパ王よ、と今ヘロデアグリッパにパウロは問うているのではありませんか。旧約を土台にしたその光は何かと。それは、エルサレム神殿か、復活の主イエスかと。
もし前者を取るのなら、破滅を自ら選ぶことになりましょう。今、まさに落成祝いを待つばかりのエルサレム神殿の寿命は、あとわずかだからです。その神殿のように、彼の生涯はむなしく崩れ去って行くでしょう。
しかし、後者、復活の主イエスを光とするのなら、死から復活されたキリストと同様に死んでも生きることになるのです。実に、十字架の主イエスが今アグリッパの前に差し出されているのです。アグリッパが、生涯これほど救いに接近したことはなかったでしょう。「あれかこれか」が問われているからです。彼は、ただキリストに光を見出せばよかったからです。イエスこそが、真の神殿、神の住まいである、と。
実は、主イエスは、エルサレム神殿を清められた時、ご自身こそが真の神殿である、ということを宣言していたのです。「イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。(ヨハネ5:19~21)」これが大切なのです。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことであって、跡形もなく破壊されたエルサレム神殿ではないということなのです。聖書を土台にした光は、エルサレム神殿ではなく、イエスキリストである、これがここで示されている真理なのです。そして、それが、今アグリッパに突き付けられているわけです。パウロが、アグリッパ王よ、と最初に名指したのは、何としてもこの救いを受け取ってほしいからなのです。これは、今国王に対する伝道説教になっているのです。
私たちの光は何でしょうか。この世の力でしょうか、財産でしょうか、地位や名声でしょうか。それらは全てエルサレム神殿です。必ず跡形もなく崩れ去って行きます。もしそれを光にするのなら、同じ道を辿るしかありません。
旧約の信仰者は、謳いました。「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。((詩編119:105))」本日私たちはこの御言葉で礼拝に招かれました。
今この同じ御言葉で、ここから遣されようではありませんか。御言葉こそが主イエスご自身であり、私どもの光です。ただ御言葉のままに、この光に歩むとき、私どもは永遠の命に与り、主イエスご自身が必ずともにおられます。讃美歌326