2020年09月20日「最後の説教Ⅱ-伝道者の使命」

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最後の説教Ⅱ-伝道者の使命

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
使徒言行録 26章12節~18節

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「こうして、私は祭司長たちから権限を委任されて、ダマスコへ向かったのですが、その途中、真昼のことです。王よ、私は天からの光を見たのです。それは太陽より明るく輝いて、私とまた同行していた者との周りを照らしました。私たちが皆地に倒れたとき、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う』と、私にヘブライ語で語りかける声を聞きました。私が、『主よ、あなたはどなたですか』と申しますと、主は言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。』」使徒言行録 26章12節~18節

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説教の要約 「最後の説教Ⅱ-伝道者の使命」使徒言行録26:12~18

先週から、パウロの最後の説教を描いた御言葉に入りました。本日の箇所は、パウロに、復活の主イエスが現れた「パウロの回心」と呼ばれている記事です。この記録は9章と22章ですでに描かれていますが、今回は、特に、パウロが回心した時に復活の主イエスから賜った言葉が詳しく証言されています。

ダマスコ途上で太陽より明るく輝く光に打たれて地に倒れたパウロに、まず主イエスは、「起き上がれ。自分の足で立て(16節)」、と言われます。この「起き上がれ」これが聖書的に非常に大切な言葉です。これは「復活せよ」、とも訳せる言葉で、あの主イエスの復活の場面でも使われているからです。実に、地に倒れたパウロが、回心前の彼の姿を象徴していたのです。彼は、若く元気でした。キリスト者を殲滅させるためにその首謀者として積極的に駆け回っていました。しかし、聖書的にそれは、地に倒れていたのです。主イエスと無関係に生きていたからです。今、主イエスとの関係が始まった時、「起き上がれ」、と本当の意味で生きる者とされたのです。その後で、「自分の足で立て」、と肉体的に立ち上がる動きが続くのです。この順番が大切なのです。主イエスと無関係に自分の足で立っていても、聖書的にそれは倒れている状態と変わらないのです。

そのうえで、主イエスはパウロにご自身が現れた目的を語られます。「あなたを奉仕者、また証人にするためである」これです。パウロは、主イエスの奉仕者であり、証人なのです。そして、今日の伝道者、或いは牧師もまた、主イエスの奉仕者であり、証人なのです。

ギリシャ語で奉仕者といいますと食事の給仕役を意味する「ディアコノスδιάκονος」或いは「ディアコニア(διακονία)」という執事の語源になった言葉を思い出される方もおられると思います。

しかし、ここで使われていますこの「奉仕者」という言葉は、それらではなくて、船の漕ぎ手、しかも下役の漕ぎ手を語源にした言葉で、さらに低い身分の者を示します。伝道者は、オールを漕ぐ下働きの水夫…。船長でも舵取りでもなく、クルーなのです。私たちの国では多くの場合牧師を「先生」と呼びます。これは、日本の教会が積みあげてきた習慣で、仕方がない部分はあります。

しかし、覚えておいていただきたいのは、教会の先生はキリストだけであって、牧師もキリストの生徒であり、弟子の一人にすぎない、ということなのです。マルティン・ルターは、自らを「乞食」といってはばかりませんでした。伝道者は、週ごとの御言葉を無償でいただいているからです。しつこくねだるように祈り求めて、ただで受けたキリストのおこぼれを、信徒と求道者と共に分かち合う、その役割が牧師であって、先生は、キリストただお一人であります。だから、同時に伝道者は証人なのです。御言葉と聖霊によって、キリストの言葉の解き明かしをいただき、それを証言するからです。ですから、この御言葉の説教こそが「証言」、「キリスト証言」なのです。

そして、続きまして、キリストの奉仕者、証言者として召された伝道者の役割が示されています。「それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである(18節)。」本日は「伝道者の使命」という説教題が与えられましたが、これが「伝道者の使命」なのです。なんと畏れ多い大切な使命でありましょう(Ⅱコリ2:16参照)。

ここで大切なのは、伝道者は自己実現とは無縁である、ということです。

大切なのは、自己の実現ではなく、キリストの実現なのです。伝道者にとって、生活が満たされているとかいないとか、あれがしたいこれがしたい、それはどうでもいいことなのです。

パウロが、いつ自らの生活の安定や、向上を願ったでしょうか。彼は、キリストの僕に徹したのです(Ⅰコリ4:11~13を是非参照ください。これが聖書の示す真の伝道者の姿です)。

最後に本日の御言葉全体のパウロの回心の証言から、3つのことを分かち合いたいと思います、

 一つ目は、イエスがパウロを見出した、という事実です。パウロがイエスを見出したのではないのです。パウロがダマスコ途上で探していたのはイエスではなく、イエスの弟子たちです。イエスはとっくに死んだものと思っていたのです。しかし、イエスは生きていた、復活された、その復活の主イエスが、パウロを見出したのです。私がイエスを見出す以前に、イエスが私を見出してくださっていた、これが聖書の示す救いの順序なのです。

 二つ目、パウロには非常に重要な使命が与えられました。

それは、「彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになる」この罪人の救いの全てです。

大切なのは、この救いの全てをまずパウロがいただいた、ということなのです。

しかも、彼がまだ一言も福音を宣教していないうちに。これがキリストの選びなのです。

 私たちは、伝道をしましょう、と言います。しかし、他ならぬこの私がまず、その福音の全ての恵みをいただいていることをどれだけ知っているでしょうか。どれだけ感謝して、どれだけ喜んでいるでしょうか。この救いの全てをいただいた喜びに満ち溢れていなければ、伝道も何もありません。

私たちは、実績や功績のようなものとは一切無関係に、救いの恵みを一つも漏れることなくいただいているのです。それが私たちの伝道のスタート地点です。

 三つ目、若い日のパウロの回心の時に、キリストに与えられたこの使命は、彼の晩年そのまま賛美に変わっていた、という麗しい事実です。

 パウロが晩年の牢獄で書き上げましたコロサイ書の冒頭にその賛歌はあります。

 「光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。(コロサイ1:12~14(368))」これは、キリスト賛歌と呼ばれている新約聖書指折りの美しい詩の一部です。

 順番こそ入れ替わっておりますが、光の中、聖なる者たちの相続分、闇の力からの救い、罪の赦し、とこのようにパウロが回心した時に与えられた使命が散りばめられています。

この伝道者が、若かりし日に与えられた使命は、晩年には賛美に変わっていたのです。

 なんと麗しい真っすぐな信仰でありましょうか。

 私たち信仰者には必ず、選ばれた目的があります。それは説教者だけではありません。奏楽のために用いられる方、賜物を用いて賛美をされる方、祈る方、チラシ配りなど伝道活動に仕える方、会計を委ねられる方、清掃の奉仕をされる方…。その与えられた使命が、やがてそのまま神賛美へと変わる、このキリスト者の生涯はいかに幸いでありましょうか(詩編1編参照)。