2025年04月13日「神の御子の十字架」

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聖句のアイコン聖書の言葉

45節 さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
46節 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
47節 そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。
48節 そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。
49節 ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。

50節 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。

51節 そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、

52節 墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。
53節 そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。
54節 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
55節 またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。
56節 その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。
マタイによる福音書 27章45節~56節

原稿のアイコンメッセージ

説教の要約

「神の御子の十字架」マタイ27:45〜56

本日の御言葉は、神の御子主イエスが、十字架で息を引き取られる十字架のクライマックス部分と言える場面です。その十字架上で主イエスは、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」、と叫びました。「これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(46節)」、とナレーションが入りますように、これは、詩篇22編からの引用で、主イエスがこの詩篇を誦じていて、十字架の苦しみと神の沈黙という現実の中でこの御言葉を叫んだのです。

以前紹介しましたが、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ、これは私たちの信仰のバロメーターである」、と言いながら福音を宣教して地上を去っていかれた牧師がおりました。その通りではないでしょうか。私たちは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」、と言えるほどに神に信頼を置いて生かされていますでしょうか。神に見捨てられたら生きていけない、天のお父様がいなければ生きていけない、という信仰生活を続けている者だけが、この叫びを上げること許されるのです。この主イエスの十字架の叫びに悔い改めて、私たちはあらためて、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」、この絶対的な神への信頼に立ち帰りたいと思うのです。

続いて、この叫びを上げて主イエスが息を引き取られた後に起こった出来事が描かれます。

その中で、突如難解な御言葉が現れます。「地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。(51〜53節)」、この部分です。ここは、全ての十字架の場面の中で最も難解な御言葉と言えます。長い間信仰生活を続け、聖書を通読している方でも理解に苦しむようなところではないでしょうか。これを解く鍵は、この部分だけ文学様式が黙示文学に変化している、ということです。ここまで、通常の記録として語られてきた記事が、主イエスの十字架の死を合図にするかのように、黙示文学という特殊な文体に一瞬変わるのです。この黙示文学という文学様式は、ヨハネの黙示録に代表されますが、旧約聖書の中にもダニエル書の後半部分やエゼキエル書の一部に見られます。大切なのは、この黙示文学はその大きな特徴を弁えて読むということです。そしてそれは、時間と場所が度外視されている、というところなのです。ヨハネ黙示録でも、ヨハネが見た幻は、この世の終わりの出来事であり、時間と場所は度外視して語られていました(例えばヨハネ黙示録21:1、2参照)。このヨハネが幻を見ている場所は、パトモス島というエーゲ海の孤島で、ヨハネは、紀元94年にドミニティアス帝によってこの島に流刑されたのにもかかわらず、この出来事が起こっている場所は、彼がいる孤島をはるかに超えたスケールで語られています。また彼は、私たちの時代よりもさらに先の終末の出来事を、しかも過去形で語っています。ところが、御言葉が示す真理はよくわかります。ですから、この文学様式をマタイ福音書の本日の箇所に適用すれば同じように理解できるわけです。すなわち、「地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。」、ここには、黙示文学という文学表現でマタイが見た終末の幻が挟み込まれているわけでありまして、これらは、この主イエスの十字架の直後に起こった出来事ではありません。マタイは、主イエスの十字架の記事を書き終えた直後に、その信仰の目を開いて、この世の終わりの時の様相をマタイ版黙示録として、ここで書き上げたわけです。

その上で大切なのは、「墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」、というこの黙示表現です。ここでは主イエスに続く死者の復活が、大変具体的に生き生きと描かれているからです。この福音書が執筆された最初期の教会の時代は、ローマ帝国の迫害を逃れて、地下にあったカタコンベと言われる場所で礼拝をささげ、信徒の交わりを深めていました。そのカタコンベには、天に召された信仰者の亡骸が安置されていたのです。その朽ちていく兄弟姉妹の隣にあって彼らは、永遠の命を確信していたのです。これが、具体的な復活信仰ではないでしょうか。

人が死んでしまった時、その姿を見て疑う人はいません。明らかに死んでいるからです。しかし、その亡骸を見て死を疑わないように、その同じ亡骸を見て命を疑わないのが、私たちの信仰です。特に葬儀の席で、地上の生涯を終えて棺のなかに眠っている兄弟姉妹のその姿を見て、むしろ永遠の命の希望を新たにする、ここにこそ私どもキリスト教信仰の本質がございます。

さて、最後に二通りの立場の目撃者が現れて、この十字架の場面は幕を閉じます。それはローマ兵と(54節)、女性たちです(55、56節)。特に、女性たちの目撃情報が、「またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。」、と記録されているところは大切です。

 ここでは、「大勢の婦人たちが遠くから見守っていた」、と描かれた上で、「その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた」、とわざわざ実名まで記されているからです。その中でもこの「マグダラのマリアとヤコブとヨセフの母マリア」、この両名は、この後の主イエスの埋葬と主イエスの復活の目撃者として登場してきます。これ以上に有力な証言者はいないくらい、彼女たちは、主イエスの十字架と復活の証人として最初期の教会で用いられたのでありましょう。その一方で「あれ、男たちはどこへいったの」、という問いが必ず浮かぶはずです。ことに、主イエスの弟子たちは、主イエスが逮捕される前に全員逃げ出してしまいました。そもそも彼らは、主イエスのためなら命さえ惜しくない、とほんの数日前に約束したばかりでした。「ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。(26:35)」、この通りです。しかし、彼らは、全員主を裏切ったのです。

 実は、ここが女性たちとの大きな違いです。彼女たちは、主イエスと一緒に死のうなんて大それたことは全く考えていないのです。「この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である」、この部分は直訳しますと、「彼女たちは、イエスに仕えるために、ガリラヤからイエスに従ってきた。」となります。ですから、ここで、「世話をしていた」、と訳されている部分は、「仕えるために」、という目的を示す不定詞で表現されているわけなのです。そして、この仕えるという字は、ギリシア語で「ディアコネオー」と読みます。これは、あのディアコニア、という教会の奉仕、とりわけ執事の働きを示す言葉が動詞になったものです。さらに、この「従って来て」、と訳されている動詞は、「弟子になる」、と訳すことも可能な言葉です。この女性たちは主イエスに執事のように仕えるために弟子になってここまでついてきたのです。これが男弟子たちとの決定的な違いです。両者が弟子であることのその目的が全く違っていたのです。男たちは、主イエスと一緒に死ぬといった。しかし、実際は命欲しさに逃げ出した。つまり、結局彼らの本心は、支配者になりたいということだったのです。主イエスの王国が完成した暁に、右大臣となるのは誰か、左大臣となるのは誰か、それが、「一緒に死にます」、と嘯いた彼らの立場でありました。ところが、その目的が支配者ではなくて奉仕であった女性たちは、十字架の後も主イエスに従った、従うことができた。いいえ、従いたかった。この姿が大切ではないでしょうか。これは十字架の直前に主イエスが言われていた神の国の基準です(マタイ20:25〜28参照)。キリストの弟子の中では、あらゆる権力主義は否定されるのです。男弟子たちが、主イエスの言葉など右から左に聞き流して異邦人の基準で主イエスに期待していたのに対して、女性たちは、主イエスの言葉に留まって愚直に主イエスに仕えたのです。私たち主イエスの弟子たちに求められていること、それは、支配することではなくて、仕えること、主イエスのお役に立てることを探すことなのです。十字架は、愚かな男たちの姿を暴き、健気な女性たちの姿を映し出しました。

 現在は、この時代とは違って、「男だからああだ、女だからこうだ」、ではありません。それでもあえて、私たちの時代の文脈に置き換えるとしたら、「強いか、弱いか」、でありましょう。ですから、弱くていいのです。いいえ弱い方がいいのです。「弱い時にこそ強い」、これが神の国の法則だからです。

神の御子の十字架を特に覚えて歩むこの一週間、私たちは十字架の言葉に悔い改めて、十字架の主に従い続けたあの女性たちのように、イースター礼拝に備えていきたいと願います。