2020年09月13日「最後の説教Ⅰ-なぜ信じないのか」
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最後の説教Ⅰ-なぜ信じないのか
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
使徒言行録 26章1節~11節
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聖書の言葉
アグリッパはパウロに、「お前は自分のことを話してよい」と言った。そこで、パウロは手を差し伸べて弁明した。「アグリッパ王よ、私がユダヤ人たちに訴えられていることすべてについて、今日、王の前で弁明させていただけるのは幸いであると思います。王は、ユダヤ人の慣習も論争点もみなよくご存じだからです。それで、どうか忍耐をもって、私の申すことを聞いてくださるように、お願いいたします。さて、私の若いころからの生活が、同胞の間であれ、またエルサレムの中であれ、最初のころからどうであったかは、ユダヤ人ならだれでも知っています。彼らは以前から私を知っているのです。だから、私たちの宗教の中でいちばん厳格な派である、ファリサイ派の一員として私が生活していたことを、彼らは証言しようと思えば、証言できるのです。今、私がここに立って裁判を受けているのは、神が私たちの先祖にお与えになった約束の実現に、望みをかけているからです。私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕え、その約束の実現されることを望んでいます。王よ、私はこの希望を抱いているために、ユダヤ人から訴えられているのです。神が死者を復活させてくださるということを、あなたがたはなぜ信じ難いとお考えになるのでしょうか。実は私自身も、あのナザレの人イエスの名に大いに反対すべきだと考えていました。そして、それをエルサレムで実行に移し、この私が祭司長たちから権限を受けて多くの聖なる者たちを牢に入れ、彼らが死刑になるときは、賛成の意思表示をしたのです。また、至るところの会堂で、しばしば彼らを罰してイエスを冒瀆するように強制し、彼らに対して激しく怒り狂い、外国の町にまでも迫害の手を伸ばしたのです。」使徒言行録 26章1節~11節
メッセージ
説教の要約「最後の説教Ⅰ-なぜ信じないのか」使徒言行録26:1~11
いよいよ本日から、この使徒言行録最後のクライマックス部分といえます、パウロの最後の説教を記録した御言葉に入って行きます。本日の箇所はその冒頭部分で、ここでパウロは、自らの若き日の姿と今の姿を対比させながら、過去の過ちと、福音の真理を明らかにします。
現在のパウロが裁判を受けている理由は、「神が私たちの先祖にお与えになった約束の実現に、望みをかけている(6節)」、これです。
しかし、若い日のパウロも、神の約束の実現に望みをかけてきたはずですし、「私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕え、その約束の実現されることを望んでいます(7節)」、とこのようにパウロは、ユダヤ人全体が約束の実現に、望みをかけていると言うのです。
それにもかかわらず、「私はこの希望を抱いているために、ユダヤ人から訴えられているのです(7節)」、とこのようにパウロは言います。ここで大きな矛盾が起きています。
パウロもユダヤ人も、神の約束の実現に望みをかけているのに、パウロがユダヤ人から訴えられている、ということだからです。どうしてでしょうか。それは、つまり、パウロの抱いている希望とユダヤ人たちが抱いている希望が全く違うからです。
パウロの希望は、「神が死者を復活させてくださる(8節)」ことで、この死者の復活が、ナザレのイエスによって実現したという事実だからです。若い日のパウロも、今パウロを訴えるユダヤ人も、十字架のイエスの復活を忌み嫌ったのです。
それに対して、パウロは、「神が死者を復活させてくださるということを、あなたがたはなぜ信じ難いとお考えになるのでしょうか。(8節)」とこのように、なぜ十字架の主イエスの復活を信じないのかと問うているのです。
ここで注目すべきは、なぜ信じられないのか、と言ったパウロが、論理で説得して信じさせようとしたのではないということです。パウロはまず過去の自分の罪を告白したのです(9、10節)。これが大切なのです。パウロは、自らの手で、キリスト者を捕らえ、牢に投げ入れ、死刑に追い込んだのです。しかもその数は多かったのです。
パウロは2年前、エルサレムで逮捕されてから、度々ローマの役人の裁きを受けてきました。千人隊長、総督フェリクス、そしてフェストゥス…。彼らは口をそろえて言いました、この男は無罪である、と。しかし、過去にさかのぼれば、パウロは死罪に相当することを十分やってきたのです。ローマ法では見逃されても、神の律法は見逃さないのです。
ですから、ローマの役人が束になって彼の無罪を宣言しても、彼は有罪なのです。
それをパウロはこの弁明の中で明確にしたのです。これは弁明ではなくて罪の告白であり、defenseではなくてconfessionになっているのです。
ではどうして、パウロは自らの過ちを告白したのでしょうか。
それは、赦されたからです。そして信じてほしいからなのです。
パウロは今、十字架の主イエスの復活を信じてもらうために、過去の自分の罪を告白したのです。すなわち、この罪の告白は、十字架の主イエスの事実を信じてもらう足がかりなのです。過去償いきれない大罪を犯したこの私が十字架によって赦された、そればかりか、復活の命に生かされている、これを信じてほしいからです。
そしてこれがこの説教全体の底流を流れている説教の目的なのです。
パウロは、死の直前の牢獄で、愛弟子テモテに「我罪人の頭なり」、と有名な言葉を残しました(Ⅰテモテ1:15)。私たちが信仰生活を続ける中で、何度この御言葉が立ち上がるでしょうか。何度この御言葉に立ち返るでしょうか。
しかし、考えていただきたいのです。
世界を駆け回り、キリストのために精魂使い果たして、牢獄で死を待つだけの伝道者にとって、これほど惨めな言葉がありましょうか。花束を贈られて笑顔で引退する牧師とは正反対です。パウロが、「我罪人の頭なり」、といいます時、それはへりくだりでも何でもなかったのです。それは、厳然たる彼の自己認識です。この伝道者のセルフイメージです。
彼は、死の時まで、罪人の頭であることを強烈に自覚し続けたのです。そして、その罪人の頭でさえ救われたのだから、救われない者は一人もいない、このことを疑わずに伝道を続けたのです。これがパウロの伝道なのです。
パウロは、ヘロデやフェストゥスよりも、私の方がまだましだ、なんてことは心の隅にもなかったのです。この部屋の他の誰よりも罪人であることを認めているのです。
しかし誰よりも低いセルフイメージを持ちながら、今彼は喜びに溢れているのです。
そして、それが、この彼の最後の説教の最初から躍動しているのです。
私たちが過去犯した罪、それを一つでも告白するのは恥ずかしいです。
しかし、罪人の頭が救われた証となるのなら、それによって主イエスの憐れみが示されるのなら、そのひとかけらでも、用いていただこうではありませんか。
百のサクセスストーリーよりも、一つの罪の告白に私は胸を打たれ、その方を尊敬します。
彼は、主イエスに赦されたことを疑わずに歩む、真のキリスト者であるからです。
確かに彼はキリストを着ているからです。
今日一番申し上げたいのは、次のことです。「なぜ信じないのか、それは、なぜ信じることができたのかの裏返しであり、そこには必ず赦された喜びがある。」これなのです。
許された喜びの前に過去の汚点など大した問題ではないのです。
パウロはこれをこの説教の冒頭で示しているのです。
私たちは自らの外見に恥じる必要がないばかりか、自らの過去についても恥じる必要も無い、むしろそれを洗い流し、赦して下さったキリストの十字架を讃えるべきです。
それが私どもの信仰の証となりましょう(Ⅰペトロ3:15参照)。
今伝道が不振であるのは、信徒が世の人よりはましだ、と心のどこかで思っているからではないでしょうか。あの人よりはましだ、と。本当に罪に苦しんでいる方は、それくらいのことは簡単に見抜きます。罪人が、正しい人の集会にどうしていけましょうか。教会は正しい人の集まりではなく、十字架の血によって罪許された罪人の群れです。
信徒一人一人が心底「われ罪人の頭なり」この御言葉に立って救われた喜びに満たされていれば、それがそのまま伝道となるはずです。