2025年02月02日「新しい歌を主に向かって歌え」

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新しい歌を主に向かって歌え

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
詩編 98章1節~9節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1節 新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって、主は救いの御業を果たされた。
2節 主は救いを示し、恵みの御業を諸国の民の目に現し、
3節イスラエルの家に対する慈しみとまことを御心に留められた。地の果てまですべての人は、わたしたちの神の救いの御業を見た。
4節 全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え。
5節 琴に合わせてほめ歌え、琴に合わせ、楽の音に合わせて。
6節 ラッパを吹き、角笛を響かせて、王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ。
7節 とどろけ、海とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものよ。
8節 潮よ、手を打ち鳴らし、山々よ、共に喜び歌え
9節 主を迎えて。主は来られる、地を裁くために。主は世界を正しく裁き、諸国の民を公平に裁かれる。
詩編 98章1節~9節

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説教の要点

「新しい歌を主に向かって歌え」詩編98:1〜9

本日は、一度ヨハネ福音書の連続講解説教を中断して、今年度の年間聖句の詩編の御言葉が与えられました。まず、この詩が詠まれた時代背景は、イスラエルの民が、バビロン捕囚から解放され、エルサレムへと帰還する頃であろう、と言われていて、そのような状況で、この詩は「新しい歌を主に向かって歌え」、と始まります。ここで大切なのは、「新しい歌」と言われますその新しさです。これは、決して新曲を歌えというのではありません。そうでしたら、教会は毎年新しい讃美歌をこしらえて、神を賛美することが求められているわけです。この「新しい歌」の新しさは、そのようなこの世的な新しさではなくて、「新しい歌を主に向かって歌う」、その私たちが新しくされることです。日々悔い改めて、キリストによって新しい命に生かされる私たちが歌うから新しいのです。しかし、それは具体的にはどういうことになるのか、それを三つの点から確認いたします。

 一つ目、その新しさは、「主は驚くべき御業を成し遂げられた」、私たちがこの主の驚くべき御業の目撃者であるという新しさです。先述の通り、この詩編が謳われた背景は、イスラエルの民がバビロン捕囚から解放され、エルサレムへと帰還する頃であろうと言われています。ですから、彼らが目撃した主の「驚くべき御業」、というのは、直接的には、バビロン捕囚からの解放であり、故郷であるイスラエルへの帰還であったのです。これは歴史的には、バビロンがペルシャ帝国に敗れ、そのペルシャ帝国の宥和政策によってユダヤ教が認められ、同時にユダヤ人のエルサレムへの帰還が許されたからです。ペルシャ帝国にとっては、あくまでもこれは政治的な意図で国益を優先して、征服した民族とある程度妥協しながら領土の安定を謀り、帝国の支配を拡大していっただけの話なのです。

 しかし、この詩編では、それを全て支配しているのは、我々の神である、という信仰に立っているのです。すなわち、主の「驚くべき御業」、これは、目玉が飛び出るような出来事ではなくて、私たちの目の前で起こっているすべての出来事に神が介入しておられる、この神の摂理を信仰の目で見ることなのです。私たちは、この世の物差しで神の御業と御言葉を計測する習慣を直ちにやめて、聖書の信仰に立ち帰って、神の御業を目撃しなければなりません。天地万物創造の神は摂理の神であり、この神様が関与されない出来事は、この世にたった一つもありえません。ですから、神は人間の愚かさや罪まで用いて、この世を支配しておられます。この私たちの信仰生活で日々与えられる恵を数える、その一つ一つに神の御業を確認する、だから私たち新しいのです。つまり、「新しい歌を主に向かって歌う」、その新しさは、信仰の目を開く、その新しさなのです。

二つ目、その新しさは、揺るぎない信仰に基づくものである、ということです。

この詩篇の1〜3節までで謳われています神の御業を示す動詞は、この日本語訳の聖書でもほぼ過去形で示されていていますが、ヘブライ語で読みますと日本語訳で曖昧なところもすべて過去形で、この神の御業がことごとく実現したかのように謳われています。しかし、この詩編を謳っている信仰者が肉体の目で見ている現実はどうであったでしょうか。実現どころか、前途多難であり、これからエルサレムに戻り、神殿を再建する、と想像を絶するようなエネルギーが必要です。しかし、信仰のエネルギーがそれをはるかに超えていたのです。だから、この信仰者は捕囚民から解放された時に、これから実現する神の「驚くべき御業」をことごとく過去形で謳ったのです。そして、その信仰的立場こそが、「新しい歌を主に向かって歌え」、この新しさに他ならないのです。

私たちキリスト者が、この世におきまして異教の都バビロンから神の国に向かう途上にあって尚、まだ完成していない神の国を過去形で謳えるほどに揺るぎない信仰によって展望します時、私たちの口から「新しい歌」がこぼれていくのではありませんか。それが地の果てにまで響く賛美となり、被造物全体まで巻き込んだ壮大な神賛美へと拡大していく、私たちは、この信仰に立ちたいのです。

 しかしながら、三つ目、それでも尚、神の国が完成していないのは事実であり、パウロが言いましたように(ローマ書8:19〜22)、今は神の国の産みの苦しみにある、その困難な時代であることも事実です。実際今世界中で争いが止まず、自然災害が頻発して、世界が壊れていく様子が私たちの目に映し出されています。だから、私たちは「主を迎えて。主は来られる、地を裁くために。主は世界を正しく裁き、諸国の民を公平に裁かれる。」、と再臨の主イエスに希望を抱く以外ないのです。実は、この節で使われている動詞の時制は、最初の1〜3節までのものとは区別されています。まず、「主は来られる」、この動詞は、分詞というかたちをとっています。ヘブライ語というのは大変面白い言語で、基本的に過去形と未完了と呼ばれる未来形しかないのですが、分詞になりますと現在形のようにも機能します。ですから、ここは、「主は来られる」、という未来への期待以上に、もっと現実的です。むしろ、ここは、「主は来ている、地を裁くために」、と訳した方がそのニュアンスに近いように思われます。もうすでに主はこの世に来ていて、主の裁きはすでに始まっているのです。

 私たちが、サタンが幅を利かせているとしか思えない現実の中で、それでも尚、主がここにいらっしゃる、主の裁きはすでに始まっている、という希望が与えられているということです。つまり、主共にいます、このインマヌエルの立場です。実に、ここにも「新しい歌」を歌う私たちの新しさがあるのです。インマヌエルが生活の現実になる時、必然的に「新しい歌」は、私たちの群れの中で響くのです。

 そして、最後の部分、「主は世界を正しく裁き、諸国の民を公平に裁かれる」、この「裁かれる」、これは未完了形と呼ばれる未来をさす時制です。ここでは、「正しく裁き」、そして「公平に裁かれる」、と裁きの公平さが強調されています。それは、この世の裁きが公平ではないからです。いつの時代も、この世は公平ではない、これが事実です。今パレスチナで行われているジャッジ、一体あれは何でしょうか。あの不平等が、あの残忍さこそが、この時代を映し出すこの世の支配者たちの裁きの縮図ではないでしょうか。しかし、だからこそ、「主は世界を正しく裁き、諸国の民を公平に裁かれる」、この御言葉が立ち上がり、そして響き、私たちに希望を与えるのです。私たちの「新しい歌」、というのは究極的にはその希望の歌に他なりません。肉体の目で見て今がどのような状況であろうが、そこに必ず主はおられて、やがて私どもは計り知れない主イエスの恵を目撃することができる、いいえすでに私たちは神の御子の十字架というこれ以上ない神の愛を目撃しているのです。

私たちの生涯は短く、それは災いと労苦の連続です(本日の招きの詞:詩編90:10)。しかし、その一つ一つに主イエスの十字架の愛を確認することが許されている。これ以上に大きな慰めが他にありましょうか。「新しい歌を主に向かって歌え」、それはこのイエスキリストの十字架を根拠に信仰の目を開くことなのです。ここに私たちのこの一年の歩みがございます。この世の悲惨さも、弱いものたちのうめきも、そして私たち一人一人の苦しみや嘆きも主なる神の「驚くべき御業」、イエスキリストの十字架を通してこの目で見る。その時、私たち口から必ず、主に向かって歌われる新しい歌が溢れ出すはずであります。