2020年09月06日「幻想か現実か」
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幻想か現実か
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- 新井主一 牧師
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使徒言行録 25章23節~27節
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聖書の言葉
翌日、アグリッパとベルニケが盛装して到着し、千人隊長たちや町のおもだった人々と共に謁見室に入ると、フェストゥスの命令でパウロが引き出された。そこで、フェストゥスは言った。「アグリッパ王、ならびに列席の諸君、この男を御覧なさい。ユダヤ人がこぞってもう生かしておくべきではないと叫び、エルサレムでもこの地でもわたしに訴え出ているのは、この男のことです。しかし、彼が死罪に相当するようなことは何もしていないということが、わたしには分かりました。ところが、この者自身が皇帝陛下に上訴したので、護送することに決定しました。しかし、この者について確実なことは、何も陛下に書き送ることができません。そこで、諸君の前に、特にアグリッパ王、貴下の前に彼を引き出しました。よく取り調べてから、何か書き送るようにしたいのです。囚人を護送するのに、その罪状を示さないのは理に合わないと、わたしには思われるからです。」使徒言行録 25章23節~27節
メッセージ
説教の要約「幻想か現実か」使徒言行録25:23~27
次週から使徒言行録で記録されているパウロの最後の説教へと入って行き、ここが使徒言行録最後のクライマックス部分となります。ですから本日の短い聖書箇所は、そのクライマックスへの導入部分であり、パウロの最後の説教の舞台が整えられる場面なのです。
まず、パウロの最後の説教の聴衆(見物人と申し上げたほうが適切でしょうか)が紹介されています(23節)。ここで見逃してはならないのは、「アグリッパとベルニケが盛装して到着し」、この部分なのです。ここでこの二人のいでたちが盛装して、とコンパクトに訳されていますが、これは直訳しますと「大いに着飾って(虚飾して、ひけらかして)」とこのような表現なのです。
実は、この「盛装する」は、ギリシャ語の原文では「φαντασία(ファンタシア)」という面白い言葉なのです。そして、これは、幻想的あるは、空想的を意味するあのファンタジーの語源になった言葉です。ですから聖書記者の目から今日的な意味を探れば、「アグリッパとベルニケが、精一杯のファンタジーを装ってやってきた」、そのような場面だと思うのです。そして、この二人を筆頭に、「町のおもだった人々」もこの場所に集められました。これは町の上流階級の中で、さらに名だたる者たちを指しているのでしょう。つまり、パウロの最後の説教の聴衆、それは、王、と総督、そしてこの二人の支配者と交流のある町の有力者、社会的には錚錚たる顔ぶれであったのです。
それに対して、フェストゥスに、「この男を御覧なさい(24節)」、と紹介されたパウロの姿は想像に難くありません。二年間の囚人生活そのままのむさ苦しい身なりで登場したのでしょう。
しかし、ここでは、盛装して登場したアグリッパとベルニケの滑稽な姿こそが、この場に集まった全ての人々を象徴しているのです。実にこの見物人の姿全体がファンタジーなのです。
まず、フェストゥスです。彼は、家来の信頼もあり、実際仕事が早く出来る男で、彼なりにそつなく仕事をこなしていることを疑わなかったでしょう。しかし、その全てが実は幻想であったのです。
それは、彼の土台が、ローマ皇帝にあったからです。フェストゥスは、ローマ皇帝を中心に自分と世界を見つめているのです。それがファンタジーなのです。
フェストゥスは「この者自身が皇帝陛下に上訴したので(25節)」、とここで皇帝陛下という言葉を使っています。この言葉は、礼拝する、という動詞が名詞になった言葉で、礼拝の対象を示す意味があります。そして、これは新約聖書で三回しか使われていません。実は、そのうち2回はこのフェストゥスが使っていて、この言葉を口にする登場人物は聖書でフェストゥスだけなのです。
それだけではありません。さらにフェストゥスは「何も陛下に書き送ることができません(26節)」、と今度は皇帝を陛下と言い換えておりますが、これは通常「主」と訳される言葉です。主なる神の「主」、ギリシャ語の「キュリオス(κύριος)」です。この男の主は、ローマ皇帝なのです。そして、そのローマ皇帝が、あの暴君ネロなのです。なんともファンタジーな話ではありませんか。
次にアグリッパとベルニケです。彼らは、煌びやかに装い、颯爽と登場いたしました。その姿は、彼らの父親が死の直前王の服をつけて、群衆から神だとおだてられ、ファンタジーに陶酔する暇もなく死んでいったあの場面を思い出させます(使徒言行録12:21~23)。実は、この二人の背後にはさらに大きなファンタジーがありました。それはエルサレム神殿なのです。紀元前20年にヘロデ大王が始めたエルサレム神殿の修復工事がようやく完成に近づき、今や豪華絢爛な、その全貌をあらわそうとしていました。この4年後の64年に、約80年の工事を終えてエルサレム神殿が完成したからです。「大理石の柱、金銀を豪華にあしらった外壁の煌びやかさに目が眩む」、と綴った歴史家もおりました。しかし、80年の工期を終えて颯爽と登場したその神殿は、その後どうなったでしょうか。そのわずか6年後、跡形もなく破壊されました。これがファンタジーでなくて一体何でしょうか。
まさにヘロデ家の栄光であり、金字塔となるはずであった渾身の作品は、結局幻覚のように消えていったのです。このアグリッパ2世は、ヘロデ王朝最後の王様です。今、パウロの前に颯爽と登場した彼の姿は、ヘロデ家全体の儚いファンタジーを象徴しているように思えて仕方がありません。
このファンタジーの語源になったギリシャ語の「ファンタシア(φαντασία)」これは、もともと「外見」とか「映像」、そのよう意味の言葉でした。
フェストゥスもアグリッパも外観に頼ったのです。そして、これが偶像崇拝なのです。
ローマ皇帝の権力であれ、エルサレム神殿の煌びやかさであれ、この世のものとは思えない輝きを放っていたでしょう。しかし、それはやはりこの世のものであり、何とも空しく崩壊していくしかないのです。そして、そこに信頼を置いてしまう彼らの姿がファンタジーなのです。つまり、彼らのファンタジーの正体は、偶像崇拝であったのです。
次週からの御言葉で語られるパウロの最後の説教は、聴衆のファンタジーを破壊して、現実を突き付け、悔い改めを迫ります。神の言葉は人の幻想を覆し、現実を示すのです。その時、悔い改めが起こされるのです。2千年たった今も、これは全く変わっておりません。人々は、いつの時代もファンタジーを求めます。そしてファンタジーで満足し、その正体が儚い幻想であることに気付こうとしていないのです。これこそ私たちの国の姿ではありませんか。これほどファンタジーが幅を利かせ、ファンタジーに支配されている場所がありましょうか。
さて、しかし、この謁見室に一人だけ現実を見ている男がおりました。それがパウロなのです。
「盛装して」現れたアグリッパに対して、最も粗末ないでたちでこの部屋に立った男。
皇帝を「わが主」と拝むフェストゥスに対して、イエスキリストだけが「わが主」である、この信仰に立った男、それがパウロなのです。パウロは、この部屋の誰よりもみすぼらしい格好でここに立ちます。しかし、実はパウロは、他の誰よりも着飾って、今ここに立つのです。キリストを着ているからです。
パウロ自身がすでに執筆を終えていたガラテヤ書で語っています。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。(ガラテヤ書3:26、27)」キリストを着ているこれ以上に栄誉なことがありましょうか。アグリッパの盛装も、皇帝陛下も神殿も足元に及びません。ぼろを身にまとっている彼の一張羅はキリストであったのです。そして、これがキリスト者のリアリティではありませんか。滅びゆくこの世のファンタジーが幻想であるのなら、キリストを着るこの私たちのリアリティは永遠です。私たちのリアリティはこの世のファンタジーなど御呼びではないのです。
確かに私たちは、この世の只中にあって、多くの困難を与えられながら、滅びゆく弱い肉体で歩んでおります。しかし、そのような者がキリストを着て、永遠の命に生かされている現実が与えられている。これは、ファンタジーではなく、現実なのです。それは、途方もなく偉大な現実、もはや形容する言葉さえ見つかりません。あえて「ファンタスティック」とでも申し上げましょうか。(讃美歌529番)