ワムの「ラスト・クリスマス」の歌詞では、「Last Christmas I gave you my heart.」というフレーズが繰り返されます。これは、「去年のクリスマス、私の心をあなたに献げた」、このくらいの意味でしょうか。それなのに、続く歌詞で「すぐにそれが踏み躙られてしまった(But the very next day you gave it away)」、と彼は嘆くのです。辛い立場です。しかし、主なる神は、去年のクリスマスも、その前もずっと私たち罪人に御子イエスキリストという最高のプレゼントを差し出してくださっていたのではないでしょうか。「今年こそ、イエスキリストを信じて救われるように」、と。教会でクリスマス礼拝が毎年捧げられているのは、この神様のクリスマスプレゼントを差し上げるためで、それ以外ではないのです。「去年のクリスマス、私はあなた方に御子イエスを捧げた。しかし、すぐにそれが踏み躙られてしまった。しかし、今年も同じように、罪人が立ち帰るのを待とう」、神様の忍耐と愛というのは、このようなものです。「Last Christmas I gave you my heart.」、むしろこれは神様のセリフなのかもしれません。天の神様は、この愚かとも言える愛を毎年この地上に注いでくださっているからです。
「Last Christmas I gave you my heart.」、そうです、「最後のクリスマス、私はあなたに私の心を捧げた」、と言えるくらいに、私たちは大切な方の救いを心から祈り求め、十字架の主イエスキリストに立ち帰るように願うものであります。最も救いから遠いと思われる者が救われるのがクリスマスです。
説教の要約
「ラスト・クリスマス〜神様のクリスマスプレゼント〜」マタイ2:1〜12
本日の御言葉の背景は、ヘロデの宮殿が舞台に始まり、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか(2節)」、というヘロデ王に対する東方の学者の質問を契機に展開していきます。それに対するヘロデ王の様子が、「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた(3節)」、と記録されています。彼は支配者でありましたから、これはむしろ当然の不安でしょう。しかし、ここで見逃してはならないのは、「エルサレムの人々も皆、同様であった」、というこちらの方の事実です。
「エルサレムの人々」、彼らは自分自身を神の民、選びの民、と自負し、旧約聖書を根拠に、約束の救い主、まさに「ユダヤ人の王」を待望していた人々です。しかし、その神の民、すなわち、「ユダヤ人の王」を待ち焦がれていたはずの彼らに、ユダヤ人の王誕生のニュースが届けられた時、彼らは、皆不安を抱いた、しかも、その不安はヘロデ王と同様の不安であった、と聖書は言うのです。
すなわち、「ユダヤ人の王」待望の民もまた、パクスロマーナによってもたらされた経済的繁栄に満足して、そこにとどまりたかったのです。ずっとそのままでいたかったのです。とりわけ、その神の民のリーダーであった「民の祭司長たちや律法学者たち」は、旧約聖書のメシア預言を紐解き、「メシアはどこに生まれることになっているのか(4節)」、というヘロデの質問に正確に答えます(5~8節)。そもそもメシア預言というのは、異教徒の支配に脅かされていた旧約のユダヤ人たちに与えられてきた救い主誕生の約束で、ユダヤ人の希望でした。それなのに彼らには喜びがなかったのです。つまり、希望がいつの間にか知識程度に色褪せていた、ということです。ですから、この後、彼らは、全くアクションをおこしません。一人も動かないのです。待ちに待ったメシアが到来した。神の約束が今実現した。そのグッドニュースが届いた瞬間彼らは極めて無関心であったのです。
しかし、彼らとは正反対にすぐに行動を起こした男たちがいました。それが東方の学者たちです。すると、「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった(9節)」、とこのように、その目印の星が、彼らを案内したのです。本日の御言葉の全体的な流れを支配しているのは、この「東方で見た星」であります。この星が一体何であったのか、実は古くからこれを天文学的に解明しようとする試みが続けられ、ある程度の成果を残してきました。しかし、聖書がここで言っているのはそのような科学的な解明ではないのです。そうではなくて、その星が見えるのか見えないのか、これなのです。むしろ、科学など必要ないのです。東方の学者たちは、異教徒であり異邦人でした。しかし、彼らにはメシアの星が見えた、むしろ彼らは見たのです。科学者だから見えたのではありません。見たから見えたのです。しかし、神の都であるエルサレムの住民の誰一人、その星が見えなかった、いいえむしろ見なかったと申し上げた方が正しいでしょう。無関心であったからです。この星は、救い主との出会いを真剣に求めた者たちだけに認識されたのです。つまり、それは、別に奇跡でも何でもない、見たから見えたのです。空を仰げばよかった。しかし、ユダヤ人たちはまともに空さえ仰がなかった。簡単なことです。見なかったから見えなかっただけの話なのです。
異教徒の支配からの救い主を待ち望んでいたはずの神の民が、異教徒であるローマ帝国のもたらした平和から一歩も動こうとしなかった、聖書はそれを淡々と報告しているのです。
さらにこの学者たちは、「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた(11節)」、と記されています。この「黄金、乳香、没薬」、これらはどれも高価なものばかりです。彼らは、彼らの持ち物の中で一番良いものをささげたのです。つまり今、学者たちは、神様にプレゼントをしたのです。しかし、それは、神様からすでにプレゼントをいただいたからです。イエスキリストというプレゼントを。長い時間をかけて、自分たちの立場や財産、いいえ命まで投げ出して熱心に追い続けてきた明星の正体である約束のメシアに見えた、この神様のクリスマスプレゼントを彼らはいただいたのです。このイエスキリストというプレゼントに比べれば、彼らの「黄金、乳香、没薬」、といったプレゼントは、何ともつまらないものでしかなかったのです。しかし、それでもなお、ここでは、この学者たちが、全く不釣り合いな物ではありますが、最高の物を献げたところが重要なのです。イエスキリストは、最高のものを差し出しても、いいえ、自分の全財産、身分、命さえ犠牲にしても余りあるプレゼントである、それをこの異教徒たちは身をもって証したからです。
繰り返しますが、本日の御言葉では、星が非常に大切な役割を与えられています。メシアの星が輝いて、求道者と言える異教徒たちの道標となったからです。では、現代におけるメシアの星とは何でしょうか。信仰を導く明星とは。それは、聖書です。この聖書こそが世の暗闇に輝く明星です。そして、この聖書だけが、メシアへと、永遠の命へと導く道標です。ですから、現代において神様のクリスマスプレゼント、それはこの聖書なのです。聖書によって、私たちにイエスキリストが与えられるからです。そして、この世の暗闇に輝くこの星は誰でも見ることはできます。しかし、その星が見えない方が非常に多いのです。あるいは、キリスト者である私たちも見えなくなってはいないでしょうか。エルサレムの住民のように、この地上のことばかりに夢中になっていないでしょうか。まさか、キリスト者でありながら、再臨の主に不安を感じるようなことはないでしょうか。「エルサレムの人々も皆、同様であった」、この御言葉は、世の終わりまで信仰者に警鐘を鳴らしています。
ワムの「ラスト・クリスマス」の歌詞では、「Last Christmas I gave you my heart.」というフレーズが繰り返されます。これは、「去年のクリスマス、私の心をあなたに献げた」、このくらいの意味でしょうか。それなのに、続く歌詞で「すぐにそれが踏み躙られてしまった(But the very next day you gave it away)」、と彼は嘆くのです。辛い立場です。しかし、主なる神は、去年のクリスマスも、その前もずっと私たち罪人に御子イエスキリストという最高のプレゼントを差し出してくださっていたのではないでしょうか。「今年こそ、イエスキリストを信じて救われるように」、と。教会でクリスマス礼拝が毎年捧げられているのは、この神様のクリスマスプレゼントを差し上げるためで、それ以外ではないのです。「去年のクリスマス、私はあなた方に御子イエスを捧げた。しかし、すぐにそれが踏み躙られてしまった。しかし、今年も同じように、罪人が立ち帰るのを待とう」、神様の忍耐と愛というのは、このようなものです。「Last Christmas I gave you my heart.」、むしろこれは神様のセリフなのかもしれません。天の神様は、この愚かとも言える愛を毎年この地上に注いでくださっているからです。
そして、私たち人類が忘れてはならないことは、本当にこれが最後かもしれないということです。
実は、聖書的には毎年が「ラスト・クリスマス〜最後のクリスマス」なのです。「いつでもイエスキリストが再臨されるための備えをしていなさい」、これが聖書の立場だからです(Ⅱペトロ3:8〜13参照)。
「Last Christmas I gave you my heart.」、そうです、「最後のクリスマス、私はあなたに私の心を捧げた」、と言えるくらいに、私たちは大切な方の救いを心から祈り求め、十字架の主イエスキリストに立ち帰るように願うものであります。最も救いから遠いと思われる者が救われるのがクリスマスです。