2024年12月15日「アドベントの詩-Ⅲ いつまで、主よ」
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アドベントの詩-Ⅲ いつまで、主よ
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
詩編 13章1節~6節
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聖書の言葉
1節 指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
2節 いつまで、主よ、わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。
3節 いつまで、わたしの魂は思い煩い、日々の嘆きが心を去らないのか。いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。
4節 わたしの神、主よ、顧みてわたしに答え、わたしの目に光を与えてください、死の眠りに就くことのないように
5節 敵が勝ったと思うことのないように、わたしを苦しめる者が、動揺するわたしを見て喜ぶことのないように。
6節 あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び躍り、主に向かって歌います「主はわたしに報いてくださった」と。
詩編 13章1節~6節
メッセージ
説教の要約
「アドベントの詩-Ⅲ いつまで、主よ 」詩編13:1〜6
本日の御言葉に与えられた詩篇13編では、「いつまで」、という表現がまず使われています。
さらに、この「いつまで」は、3節までで4回も繰り返されていまして、この詩を詠んだ信仰者は、神から見放され(2節)、それゆえに嘆き、思い煩い、(3節)、同時に、「いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか(3節)」、とこのように敵の存在が明らかにされます。この敵が一体何であるのか、それは明確には語られていませんが、続けて「わたしの目に光を与えてください(4節)」、とこの信仰者が謳うところにヒントがあります。聖書的に目の輝きというのは、人が健康であることを象徴する表現だからです。つまり、「わたしの目に光を与えてください」、と願います時、これを謳う本人は健康を害し、病を患っている、とそのように解釈するのが、一番自然であるように思えます。そしてこれは続く「死の眠りに就くことのないように」、この願いからも支持されます。ですから、この信仰者は、「いつまで」、と4度繰り返されるくらいに、長い間病に苦しんでいた、その病が、彼の敵であった、この可能性は非常に高いと思います。しかも、この病との戦いは圧倒的に劣勢であることは明らかです。「敵が勝ったと思うことのないように(5節)」、と言いますのは、客観的に敵が優勢、いいえ、勝勢とも言えるくらいに有利だからです。さらに、「わたしを苦しめる者が、動揺するわたしを見て喜ぶことのないように」、と続きますように、肝心な私は、明らかに動揺しているのです。この「動揺する」、という字は「ぐらつく」という体が崩れていく意味合いを持ちます。病に蝕まれ、もはや立つことさえままならない、これがこの信仰者の置かれている状況であるようなのです。また、ここで、「喜ぶことのないように」、と訳されていますこの「喜ぶ」、という字は、小躍りする、とも訳せまして、大きな喜びを表す言葉です。もはや負けが確定しているのです。しかし、せめて、敵がそれに勘付くことがありませんように、私の本音が悟られませんように・・・、とここには、悲痛に満ちた願いがございます。しかも、「いつまで、主よ、わたしを忘れておられるのか」、と最初に謳ってこの詩が始まっていますように、祈っても、祈っても、その状況は変わらないのです。
これは私たちも経験してきたことではないでしょうか。「いつまで、主よ、わたしを忘れておられるのか」、これは、信仰者である以上、私たち誰もが必ず味わう苦しみです。それは、私たちの神は目に見えないからです。天から声が響くこともないからです。祈っても、祈っても、神からの返事はないし、状況は全く良くならない。そればかりか、ますます、不利な状況に追い詰められていく、信仰者であっても、このような苦痛を味わうのです。いいえ、これは、むしろ信仰者だから、信仰があるから与えられる苦しみなのです。神を信じないのであれば、このような苦しみとも無縁です。運命や宿命という言葉でほとんどのものはあっさりと解決されるからです。信仰者は、この世が言うその運命でさえ、主なる神の支配下にあることを知っているから苦しむのです。「いつまで、主よ」、と。神が天地万物を支配しておられるのを信じているから、苦難にある時、「いつまで、主よ」、と神に祈るのです。それゆえに、主なる神を信頼すれば信頼するほど、祈れば祈るほど、「いつまで、主よ」、と言う嘆きも与えられるのではないでしょうか。
しかし、最後の節で、彼の立場は見事に逆転します。「あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び躍り、主に向かって歌います「主はわたしに報いてくださった」と。(6節 )」、この通りです。
この信仰者が、苦難の中で最終的に与えられた信仰、それが、「あなたの慈しみに依り頼みます」、これでありました。しかし、「いつまで、主よ」、と4回も繰り返し、しかも全く勝ち目のない戦いの只中にある身分で、どうしてこのような逆転が可能なのでしょうか。それを解明する鍵は、「あなたの慈しみ」、と言われているこの「慈しみ」、と訳されている言葉です。これはヘブライ語で「へセド(חֵסֵד)」と言う字で、この言葉は本来、「慈しみ」、と言う一言だけでは、とても言い表すことなどできない偉大な神の愛全体を意味します。これは、変わることのない愛、絶えることも、尽きることもない愛、裏切ることのない愛、確実な愛、と言う神の愛のすべての性質を網羅した言葉です。最も簡潔に言えば、「契約に基づく愛」と定義できましょうか。やはり、契約なのです。今日を入れて、このアドベントで三度にわたって詩編に学んでまいりましたが、必ず神の契約に辿り着くのです。神の契約が私たちの信仰の根拠なのです。私たち人間が、その弱さのゆえに、嘆き、思い煩い、ぐらついても、神の愛は変わらない。この詩を詠んだ信仰者がどん底にあって、次の瞬間にそれが逆転したのは、ただ、この変わらない神の愛が契約によって与えられていることを疑わなかったからです。
キリスト者だからといって、平安な最後が約束されているわけではないのです。むしろ、立派な信仰者に限って、最後まで信仰の戦いが与えられます。信仰者であっても、いいえ信仰者であるがゆえに疑い迷うのです。私たちもやがてそのような日を迎えましょう。死の床においては、「いつまで、主よ」、と何回も繰り返し、私たちは動揺するのです。私たちは病に負けてしまうのです。勝ち目などないのです。しかし、それで良いのではないでしょうか。信仰者も動揺する、信仰者だからと言って平然といられるわけではないし、動揺してもそれは責められないのです。「あなた信仰者なのだから」、なんていうのは全く聖書的ではないのです。
世界宣教の扉を開くために用いられた伝道者パウロもその弱さにぐらついたのです。本日招きの詞で与えられたパウロの弱さ自慢です(Ⅱコリント13:8〜10参照)。パウロもまた、病に苦しみ、「いつまで、主よ」、と何回も繰り返しながら、福音宣教に勤しんでいたのです。しかし、状況は何ら変わらなかった、それどころか、「わたしの恵みはあなたに十分である」、とその病に苦しむパウロの姿に、主なる神の恵が満ち溢れている、とまで言われてしまうのです。私たちも同じではないでしょうか。
実は、聖書的にこのような嘆願は3回が限度です。パウロが、「わたしは三度主に願いました」、と言うのは、もうこれ以上ないくらい数えきれないくらいに主に願い、限界まで祈った、そういう意味です。ですから、この詩人が4回繰り返しているのは実は反則なのです。しかし、反則しても、インチキしても、主なる神は変わらない。私たちが、変わってしまっても、神の慈しみである「へセド(חֵסֵד)」、この契約の愛は変わらない、だからそこに立ち帰ればいいのです。立ち帰れば、丸ごとそのまま神の愛、「へセド(חֵסֵד)」にありつけるのです。これが、今私たちが、あるいはこれから先、私たちの体が弱くなっていく上で、それでも尚再臨に主を待ち望む信仰ではないでしょうか。この信仰者も5節まで「いつまで、主よ」、と嘆き続けているのです。しかし、6節で立ち直っている、つまり、最後の一節で立ち帰ればいいということです。私たちの嘆きは何節分あるのか、それは各々違いましょう。3節で終わる方もいれば、5節、いいえ10節まで嘆きが続く方もおられましょう。詩編で一番長いものは176節ございます。何節嘆いても、最後の一節は、「主はわたしに報いてくださった」、この喜びが約束されている、神の契約の愛は変わることがない、この信仰に立とうではありませんか。