2024年12月08日「アドベントの詩-Ⅱ わたしたちは何者か」

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アドベントの詩-Ⅱ わたしたちは何者か

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
詩編 8編1節~10節

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1節 指揮者によって。ギティトに合わせて。賛歌。ダビデの詩。
2節 主よ、わたしたちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます
3節 幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き/報復する敵を絶ち滅ぼされます。
4節 あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。
5節 そのあなたが御心に留めてくださるとは人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。
6節 神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ
7節 御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました。
8節 羊も牛も、野の獣も。
9節 空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。
10節 主よ、わたしたちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く全地に満ちていることでしょう。
詩編 8編1節~10節

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説教の要約

「アドベントの詩-Ⅱ わたしたちは何者か」詩編8:1〜10

この詩編は、「主よ、わたしたちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く全地に満ちていることでしょう(2節と10節)」、この賛美のリフレインが特徴で、枠組みともなっています。詩篇の多くの作品と同様に、この詩もバビロン捕囚の憂き目にあっていた名もなき信仰者が、ダビデの名によって詠んだものである、とそのように思われます。その異教の支配下にあってこの詩には「あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの(4節)」、この真の神への信仰が満ち溢れています。中東の夜空は美しく、ことに古代オリエント諸民族にとって、天体に輝く月や星はそのまま神々でありました。バビロンでも、月をシンと呼び、金星をイシュタルと呼んで礼拝の対象としていたのです。しかし、ここでは、「月も、星も、あなたが配置なさったもの」、すなわち、これらはすべて神の被造物に過ぎない、と謳われているわけです。この信仰的な理解は非常に特殊でありまして、古代世界において類を見ないものと言えましょう。自分たちより大きなもの、偉大なものを見ると常にそれを神としてしまうのが真の神から離れた人間の姿だからです。しかし、旧約の神の民イスラエルには、神の言葉が与えられていて、「初めに神は天と地を創造された(創世記1:1)」、この御言葉に生かされていたのです。すなわち、神の言葉があるのかないのか、この違いなのです。神の言葉が与えられて初めて、罪人の目が開かれ、目に見えるすべてのものが、被造物に過ぎないことを知るのです。そして、それゆえに、その時同時に罪人は、生ける真の神との関係に生かされている、このことにも目が開かれるのです。神は唯一であって、天地万物の創造者であり、人もまたその全能の神の被造物だからです。ですから、この詩人は、すかさずその神様との関係を謳います。「そのあなたが御心に留めてくださるとは人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょうあなたが顧みてくださるとは。(5節)」、ここに、この詩編8編のクライマックスがある、と申し上げてよろしいでしょう。「月も、星も、あなたが配置なさったもの」、この偉大な創り主に対して、私たち人間は何と儚い存在であろうか、しかし、その偉大な神が御言葉を通してその弱い人間を「御心に留めてくださる」、「顧みてくださる」、この不思議としか言えない事態に驚く以外はないのです。

そして、その弱い人間が、「神に僅かに劣るものとして人を造り」、とされます。「神に僅かに劣るもの」、と言いますと急に人間の地位が高くなったように聞こえますが、それは全く違います。両者の間には依然として天地の差があって、「神に僅かに劣るもの」、とここで言われている意味は、神は完全であり、人は不完全である、という事実です。

実は、この「僅かに劣るもの」、の部分は、「低くする」、あるいは、「乏しくする」、という意味合いが強くございます。前の世紀にルドルフ・キッテルという有名なドイツの聖書学者がおりまして、彼の研究は、聖書神学の旧約聖書で重要な貢献をして、また、パレスチナの歴史的、考古学的な研究においても優れた業績を残しました。このキッテルは、ヘブライ語のニュアンスとして、この「神に僅かに劣るもの」の部分を「神の後ろに立つ」、とこのように注釈を入れています。人間は、神の被造物である以上、神の前に出てはならないのです。その人間が、神の前に出しゃばっているのが、今起こっている全ての悲惨の原因なのです。「人が神の後ろに立つ」、ここにだけ平和は実現いたします。

 そして、これは、この世の中の状況以上に、私たち神の民の中でこそ問われなければならないと思うのです。キリストの体である教会の中で、そして信仰者の間で、「神の後ろに立つ」、というあるべき姿が守られているだろうか、この世と同じ原則で教会が支配されていないだろうか、幼子のような小さな声がかき消されていないだろうか、再臨の主イエスは、それをご覧になっているはずです。

 さて、前述のように、この詩編は、「主よ、わたしたちの主よあなたの御名は、いかに力強く全地に満ちていることでしょう(10節 )」、この賛美のリフレインで終わります。ここで注目したいのは、「主よ、わたしたちの主よ」、と謳われているところで、この賛美をしているのは、「わたし」、という個人ではなくて、「わたしたち」、という信仰の共同体で、今で言いますと教会であるということです。この詩編は、教会の賛美なのです。

しかし、その上で私たちは、ここで、バビロン捕囚という圧倒的マイノリティな立場で、異教徒に囲まれて、信仰者同士が寄り添ったその姿を思い巡らしたいのです。決して大きな群れではなかったはずです。彼らは、10人、20人、と弱く貧しい集団であったのではないでしょうか。まるで私たちの姿です。しかし、いつの時代も教会はそれがノーマルなのです。圧倒的な力を持った異教社会の中で、少数の信仰者が集まって神を礼拝し、救い主を待ち望む、これが時代を貫くアドベントの神の民の姿であります。しかし、その取るに足らない信仰者の群れを神は愛でてくださるのです。

 本日は、「わたしたちは何者か」、という説教題を与えられました。「わたしたちは何者か」、実は、「そのあなたが御心に留めてくださるとは人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょうあなたが顧みてくださるとは。(5節)」、この御言葉に回答が示されています。ここで、「人間は何ものなのでしょう」、とあります、「人間」、という字は、ヘブライ語で「エノーシュ」と発音いたしまして、これは、「弱きもの」、「脆きもの」、あるいは「病の者」を表す言葉で、ヘブライ語で「人」と訳される字は10種類くらいありますが、その中で最も弱い意味を持った言葉です。あるいは、これに続く「人の子は何ものなのでしょう」、この「人の子」の「人」という字は、「アダーマー」、と発音いたしまして、あの最初の人アダムの名前の起源となっている言葉です。この言葉は、土の塵から取られたことに由来し、すなわち、土に帰りゆく存在である人間の儚さを意味する言葉です。これが私たち人間の正体です。「わたしたちは何者か」、と問われた時、私たちは、病人のように脆く、塵に帰る儚い存在である、これが、聖書の理解なのです。しかし、その取るに足らない者を「御心に留め、顧みてくださる」、全能者がおられるのです。もうそれで十分ではありませんか。

ところが、聖書はそれでは終わらないのです。「人間は何ものなのでしょう」、「人の子は何ものなのでしょう」、これは最終的にイエスキリストがこの世にこられたことによって、そしてこの主イエスの十字架と復活によって、最終的な回答が出されたのです。それが神の愛の実現であります。本日招きの言葉で与えられたヨハネ福音書3:16でそれが謳われています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)」、これが「わたしたちは何者か」、の最終回答です。最も大切な独り子さえ惜しまずに与えてくださるほどに、私たちは神に愛されている、私たちは、脆く、儚い存在であります。やがて地上の生涯を終えて死にゆく存在であります。しかし、その私たちを神は愛し、永遠の命を約束してくださっている。再臨の主が来られる前に、私たちがたとえ屍になろうとも、それさえももはや問題ではないのであります。今こそ、「主よ、わたしたちの主よあなたの御名は、いかに力強く全地に満ちていることでしょう」、この賛美が世にあまねく響きわたる日を待ち望み福音宣教に勤しみたいと願います。