2024年12月01日「アドベントの詩-Ⅰ 幸いかな」

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アドベントの詩-Ⅰ 幸いかな

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
詩編 1編1節~6節

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1節 いかに幸いなことか。神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、
2節 主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。
3節 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
4節 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
5節 神に逆らう者は裁きに堪えず、罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
6節 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。
詩編 1編1節~6節

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説教の要約

「アドベントの詩-Ⅰ 幸いかな」詩編1:1〜6

本日私たちに与えられた詩編の第一編の御言葉は、「いかに幸いなことか」、から始まります。この部分は、底本でありますヘブライ語聖書では「幸い」という感嘆詞が一つ置かれているだけですので、「幸いかな」、と簡潔に訳した方が、もともとのニュアンスには近いと思います。ここで謳われているのは、「ああなんて幸せなのだ」、という抑えきれない感情のほとばしりです。

この詩編は、ユダヤがバビロンに滅ぼされ、捕囚民としてバビロンに連行され、異教の地での生活の中で謳われたと言われていて、当時世界一の偶像崇拝の都にあって、ユダヤの一握りの信仰者が見ていた光景、それがこの詩の背景にあります。特にその光景が象徴的に映し出されるのが、「その人は流れのほとりに植えられた木(3節)」、この部分です。この「木」というのは単数形でありまして、正確に言えば「一本の木」となります。ですから、これは、川の流れのほとりに一本の木が立っている、そういう描写であります。おそらく、この流れのほとりに植えられたこの一本の木の周囲は、枯れ果てた荒れ野という設定でしょう。だから、この一本の木が強調されるわけです。異教の都バビロンは、当時世界一繁栄していた大都市であり、物質的にはとても豊かでありました。ユーフラテスの流れが肥沃な土地を生み出し、そこから文明は発展していったのです。しかし、信仰者の視点かたら眺めるその風景は、枯れ果てた荒れ野でしかなかったのです。その異教の都という広大な荒れ野にあって、信仰者が一本の木のように立っている、これはそういうニュアンスです。

これは私たちの時代も同じです。現在、クリスマスシーズンは、この世のその繁栄の頂点を彩る祭典となっています。聖書とは無関係なクリスマスがメジャーになって幅を利かせ、キリスト教会の真のクリスマスの方が、むしろマイナーな存在となっています。クリスマスは、神の御子の受肉、救い主の誕生ではなく、イルミネーション、プレゼント、ご馳走、カップルの祭典、そのようなものへと変貌しています。しかし、今再臨の主イエスキリストを待ち望む上で、それらのものは、すべて「風に吹き飛ばされるもみ殻(4節)」にすぎません。私たちの役割は、その異教の支配の中で忍耐し、流れのほとりに植えられた一本の木として、福音に立ち続けることであります。

その上で、結論が出されます。「神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。(6節)」、特に、ここで注目したいのは、「神に従う人の道を主は知っていてくださる」、この「知る」、という字なのです。この字は「選ぶ」、という意味合いが強く、実際そのように訳されている箇所もございます。それが、「わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。(創世記18:19)」、ここで、「わたしがアブラハムを選んだ」、とあります「選ぶ」、という字が、詩編の方では、「主は知っていてくださる」、の「知る」、と訳されている同じ言葉です。「選ぶ」=「知る」なのです。見逃してはならないのは、ここでも、「主の道を守り」、と道という言葉が使われていることなのです。詩編第一編の「神に従う人の道」は、創世記で言われていた「主の道」と全く同じでありまして、「神に従う人」は、「主の道」を歩むために選ばれた、そしてそれが、創世記の方で記されていた、「主がアブラハムに約束したことの成就」であるわけなのです。つまり「幸いかな」、と謳われる人のその幸いの根拠は、神の契約にあって、この神の契約にあるかぎり、どのような状況にありましても、この幸いは取り去られない、これが詩編の序論の要約であり、詩編全体を貫く神学であります。

 しかし、だからと言って、ここでは、その周りにいる偶像崇拝者を蔑んで、「神に逆らう者、罪ある者、傲慢な者」、と非難している、と理解してもいいのでしょうか。自分たちは、あいつらとは違う、「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ」人間である、そう周りと区別しているのでしょうか。

私たちも、意外とその辺りの理解が曖昧であると思うのです。この詩を倫理的に捉え、信仰者の宗教的倫理観を謳った詩編、それがこの詩編第一編である、と少なからずは思っている方がほとんどではないでしょうか。おそらく事実はその正反対です。バビロン捕囚の憂き目にある信仰者は、自らの倫理的な正しさなどに目を向ける余裕などなかったはずです。国を失い、敵国の支配の中に置かれた敗北者である以上、そのようなものは何の足しにもならないからです。彼らは、イスラエルが、主なる神様にエジプトの奴隷状態から救われたのにも関わらず、そして国まで与えられたのにも関わらず、その恩を忘れ偶像崇拝に耽っていた。それが今のこの悲惨な状況を生み出していることを理解してこの詩を詠んでいるのです。つまり、「神に逆らう者、罪ある者、傲慢な者」、これらは、決してバビロンの偶像崇拝者の姿だけではなく、むしろ、それ以上に自分たちの姿であったのです。

バビロン捕囚の憂き目に立たされて初めて目が開かれた時に、もう一度神様との関係に戻りたい、神の律法(トーラー・ תּוֹרָה)を喜び、命の道に立ち帰りたい、これがこの詩編第一編の謳われている状況であり、これも詩編全体を貫く信仰的な立場です。詩編というのは、賛美など全くできない状況で賛美し、取り返しのつかない罪を犯した状況で赦しを求める信仰と悔い改めの歌集なのです。

 つまり、「幸いかな」、とこの詩編は謳いますが、決して彼の現状は幸いと言えるような立場ではなかったのです。あるいは、イスラエルの歴史の中で、「幸いかな」、と言えた時間が如何程あったでしょうか。それは、ダビデ王国の最初のほんの僅かな期間、あるいはソロモンが神殿を築いた直後にあったほんの僅かな繁栄の時くらいではないでしょうか。それ以外は、王家の中でも争いが絶えず、民は神に背き、苦難の中で嘆き、暗闇の中を歩み続けた、それがイスラエルの歴史です。おそらく、「幸いかな」、と言えた時間はほんの僅かであり、具体的な数字で申し上げれば、ほんの1%くらいしかなかったのではないでしょうか。99%は不幸である、しかし、その現実の中でこの古の信仰者は、「幸いかな」、と歓喜の声をあげているのです。これが救い主を待ち望むアドベントの信仰ではないでしょうか。今がどのような状況にありましても、私たちは神の契約の中で生かされている、約束の救い主が必ず与えられる、その時、口から溢れる叫びが「幸いかな」この言葉なのです。

 そして、待望の救い主であります主イエスは、この詩編の成就を告げてあのマタイ福音書の山上の説教で「幸いかな」、と繰り返したのです。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。(マタイ5:3、4)」

「幸いかな、悲しむ人々よ」、と主イエスは言われますが、幸いなのは、喜ぶ人であって、悲しむ人ではありません。しかし、それが見事に逆転するのが、キリストの福音なのです。神の御子主イエスがこの地上に来られた、そして私たちのために十字架で死んでくださった。ここに神の契約が全て実現し、この主イエスが世の終わりまで、私たちと共にいてくださる。インマヌエルである、その時、どんな悲しみも必ず喜びに逆転する。今まで生きてきた道を振り返り、人生の終わりを展望した時、99%、いいえ、99.9%不幸であっても、「幸いかな」、と感嘆の言葉が溢れる、それが再臨の主イエスを待ち望むアドベントの民、私たちの立場です。