2020年08月30日「イエスが生きている」

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イエスが生きている

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
使徒言行録 25章13節~22節

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聖句のアイコン聖書の言葉

数日たって、アグリッパ王とベルニケが、フェストゥスに敬意を表するためにカイサリアに来た。彼らが幾日もそこに滞在していたので、フェストゥスはパウロの件を王に持ち出して言った。「ここに、フェリクスが囚人として残していった男がいます。わたしがエルサレムに行ったときに、祭司長たちやユダヤ人の長老たちがこの男を訴え出て、有罪の判決を下すように要求したのです。わたしは彼らに答えました。『被告が告発されたことについて、原告の面前で弁明する機会も与えられず、引き渡されるのはローマ人の慣習ではない』と。それで、彼らが連れ立って当地へ来ましたから、わたしはすぐにその翌日、裁判の席に着き、その男を出廷させるように命令しました。告発者たちは立ち上がりましたが、彼について、わたしが予想していたような罪状は何一つ指摘できませんでした。パウロと言い争っている問題は、彼ら自身の宗教に関することと、死んでしまったイエスとかいう者のことです。このイエスが生きていると、パウロは主張しているのです。わたしは、これらのことの調査の方法が分からなかったので、『エルサレムへ行き、そこでこれらの件に関して裁判を受けたくはないか』と言いました。しかしパウロは、皇帝陛下の判決を受けるときまで、ここにとどめておいてほしいと願い出ましたので、皇帝のもとに護送するまで、彼をとどめておくように命令しました。」そこで、アグリッパがフェストゥスに、「わたしも、その男の言うことを聞いてみたいと思います」と言うと、フェストゥスは、「明日、お聞きになれます」と言った。使徒言行録 25章13節~22節

原稿のアイコンメッセージ

説教の要約「イエスが生きている」使徒言行録25:13~22

フェストゥスの裁きが終わり、パウロのローマ行きが確定した後、アグリッパ王がカイサリアのフェストゥスの許に表敬訪問しました。頃合いを見てフェストゥスは、パウロとユダヤ人のことについて、アグリッパ王に持ち掛けました。その場面が本日の御言葉です。

フェストゥスは、今までの過程を簡単に説明した後(14~18節)、パウロとユダヤ人の間の問題に言及しました。「パウロと言い争っている問題は、彼ら自身の宗教に関することと、死んでしまったイエスとかいう者のことです。このイエスが生きていると、パウロは主張しているのです(19節)。」

フェストゥスは、赴任したばかりで、しかも前任者ほどパウロの宣教についての興味も知識もありませんでした。あくまでも客観的に事の真相をつかもうとしていただけです。

しかし、そのような立場の者から、「死んでしまったイエスが生きていると、パウロは主張している」、とこのように非常に鋭い見解が示されたのです。

 「死んでしまったイエスが生きている」、実にこれはパウロの福音宣教の中心です。つまりこれは主イエスの十字架と復活だからです。パウロ自身、この裁判にかけられている理由を「死者の復活のことで、裁判にかけられている」とこのように繰り返し語ってきました。

 パウロは、死者の復活、つまり主イエスの十字架と復活を宣教してきたのです。その結果、パウロはユダヤ人の恨みを買い、捕らえられ裁判にかけられたのです。

すなわち、全く無関心な第三者が、福音宣教の中心である主イエスの十字架と復活が、その伝道者の主張である、と難なく言い当てているのです。これが非常に大切です。

これは、パウロの福音宣教の中心に、当たり前のようにイエスキリストの十字架と復活があったことを雄弁に語っていたからです。これが伝道です。

 今、私たちの時代、第三者からキリスト教はどのように映っているでしょうか。

 「敬虔な人たちの集まり」、「お勉強好きなまじめな人たち」、或いは「時代遅れ」などと思う方もいらっしゃるでしょう。迷信といわれる方もおられるかもしれない。

しかし、この世的によく評価されようが、悪く評価されようが、それは大した問題ではありません。「死んでしまったイエスが生きている」、すなわち、十字架の主が生きている、これを伝えることが、何よりも大切だからです。どのように尊敬を集めても、「イエスが生きている」、という真理がそこになければ、何の意味もありません。

しかし、馬鹿にされても、恥をかかされても、下手くそでも、「イエスが生きている」、という真理を伝えればそれが福音宣教なのです。そしてこれをやり切ったのがパウロなのです。

パウロは涙を流して、馬鹿にされながら、さらし者にされながら、イエスが生きている、と最後まで命をかけて叫び続けたのです(Ⅰコリ2:1~5、4:9~13、フィリピ3:18~21などをご参照ください)。キリスト教会は、世の終わりまで十字架で死なれたイエスが生きていることを証言する群れで、それ以外ではないのです。十字架で殺された主イエスが復活した、「イエスが生きている」ここにキリスト教会の全てが詰まっています。私たちの礼拝も、祈りも、賛美も、献げものも、そしてこの世における生活、この世の死も、全て「イエスが生きている」これにかかっているのです。

では、「イエスが生きている」とどうして今言えるのでしょうか。

 どうしてキリスト教会は、そして私どもキリスト者は、世の終わりまで「イエスが生きている」と大胆に確信をもって証言し続けることができるのでしょうか。

 それは、私たちの現実の中で、御言葉が立ち上がって実現しているからです。実はそれが本日の御言葉で示されている真理なのです。

本日与えられた御言葉は、フェストゥスがアグリッパ王に、パウロとユダヤ人の問題を報告する場面で、その会話の中で、パウロとアグリッパ王の会見が実現することになりました。

そして、実は、パウロが王の前で主イエスを証することは、パウロが回心した時に主イエスご自身が彼に与えられた役割であったということなのです。

 「すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。(使徒言行録9:15、)。」

 これからパウロが王の前で、主イエスを証する、それはこの主イエスの言葉の実現なのです。これが極めて大切です。本日の御言葉は、パウロが王の前に引き出される道筋を描いて、その只中でキリストの言葉が実現したことを示し、「イエスが生きている」事実を証言するものなのです。

前回の不正な裁きの中で、ローマへの道が開けたのも、「ローマでも証しをしなければならない」、このイエスの言葉がそこで実現したからです。

 すなわち、「イエスが生きている」それはキリスト者の生活の中で御言葉が実現することによって証明される事実なのです。だからキリスト者は証人なのです。

 そしてこれは決して難しいことではありません。大げさなことでもないのです。キリスト者であれば、必ずイエスの言葉は、生活の中で実現しているはずなのです。

 主イエスは宣教の最初に「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)」、と宣言しました。今私たちが悔い改めているのなら、そして、私たちが福音を信じているのなら、この御言葉が私たちの生活の中で実現しているのです。それが「イエスが生きている」ことを立派に証しているのです。もし、このイエスの言葉が生活の中で実現せず、悔い改めないのなら、あなたは死んでいるのです。「イエスが生きている」からです。

 「イエスが生きている」のに御言葉が立ち上がらないのなら、聖書的には、その人が死んでいるのです。しかし、それでもなお「イエスは生きている」のです。「イエスが生きている」それは今私たちが生きている以上に、いいえそれをはるかに超えた事実なのです。

黙示録で天上のイエスがこのことを明確に言われています。

 「わたしはあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる(ヨハネ黙示録3:1)」、すなわち、御言葉が生活の中で実現しないのなら、「あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」、主イエスはこのようにご覧になっているのです。

今こそ目を覚まさなければならないのです。そして、目を覚まし、悔い改めて、御言葉が私たちの生活の中で立ち上がり、実現し、私たちが御言葉に従う時、「イエスが生きている」その証人となるのです。そして、その時こそ私は生きているのです。「イエスが生きている」から、私たちのこの肉体が滅んでも、私たちは生きている、「イエスは生きている」から、私たちは死んでも生きるのです(ヨハネ11:25、26)。」