2024年05月19日「聖霊降臨の出来事」

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聖霊降臨の出来事

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
使徒言行録 2章1節~13節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1節 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
2節 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
3節 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
4節 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
5節 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、
6節 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
7節 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。
8節 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。
9節 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、
10節 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、
11節 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
12節 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。
13節 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。
使徒言行録 2章1節~13節

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説教の要約

「聖霊降臨の出来事」使徒言行録2:1〜13

先週から、一度ヨハネ福音書講解説教を離れて、ペンテコステに関係する御言葉から共に教えられています。本日の御言葉は、まさにペンテコステの当日の出来事が記されていまして、特に1〜4節の記事が、通常聖霊降臨と呼ばれている御言葉です。その中でも、「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした(4節)」、これがペンテコステの出来事の中心と言えます。ここでは、少なくとも四つの大切なことが確認されなければなりません。

 一つ目は、ここでは、聖霊に満たされた者たちが、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだしたわけでありますが、このほかの国々の言葉、の言葉、という字の重要性です。

実は、この言葉、という字は、前の節で、炎のような舌とありますこの舌という字と全く同じです。炎のような舌は、聖霊なる神様を象徴するものとして描かれていたのですが、その正体は、言葉であった。

言葉は、私たち人類が理解し合うために最も必要なものです。ですから、炎のような舌というのは、決して、神秘的なものではないのです。むしろ、何よりもわかりやすいものである。聖霊なる神様は、言葉というこれ以上ないわかりやすいかたちをとって、私たちの中で働かれる、これが証言されているのがペンテコステの出来事なのです。

 同時に二つ目、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした、実は、その内容が大切である、ということです。それは、この後11節途中から、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは、とありますように、彼らが語っていたのは、神の偉大な業であったのです。“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした、その内容の方も、決して周りで聞いていた人が理解できないようなものではなかったのです。むしろ、それを聞いていた全ての人の耳に、神の偉大な業であると一致して聞き取られているほどに、それは鮮明に語られていたのです。

いつの時代も、聖霊体験を強調し、教会を混乱させる輩が登場します。しかし、彼らが、聖書とは無関係に新しい啓示なるものを語るのであれば、それは聖霊とは全く無関係です。聖霊なる神に満たされた時、その口からは、誰でも理解できるように、神の偉大な業が証言されるのです。神の言葉と無関係に聖霊に満たされる状況を聖書は語りません。

そして、三つ目、その主導権は、完全に聖霊なる神様にある、ということです。

 聖霊に満たされた者たちは、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだしたのです。ここでは、彼らの都合など全く問題にされていません。この聖霊に満たされた者たちは、彼らが望もうが、望むまいが、神の偉大な業を語らざるを得なかったのです。これは、特に現代に生かされている私たちが覚えるべき真実です。今、御言葉の説教者は、“霊”が語らせるままに、神の偉大な業を語っていますでしょうか。神の偉大な業、これは最も簡潔に要約すれば、イエスキリストの十字架と復活、そして私たちの罪の赦しと、永遠の命、すなわち福音です。この福音が、“霊”が語らせるままに語られているだろうか、もし、それがこの場所で実現しているのなら、必ず教会は成長します。その時、聖霊なる神が、ここに満ち溢れ躍動されるからです。説教者の能力のようなちっぽけなものではなくて、全能者であられる聖霊の計り知れない力によって教会は成長し、福音宣教の母体となるのです。

これに関連して、さらに四つ目、必ず、それは外へ向かって機能するということです。

 それがこの後の5節からの御言葉で明らかです。このペンテコステの出来事は、主イエスの弟子たちが使っていた家の中で起こりました。それはとても小さな家であったはずです。当時の住居は、広間であっても今で言いますと6畳や8畳くらいでありました。その狭いスペースに、一同が一つになって集まっていた時、聖霊がそこに満ち溢れた。しかし、彼らは、内向きになってその家の中で語っていたのではありません。6節で、「この物音に大勢の人が集まって来た」、とあります、この物音、というのは、元々のギリシア語では「声」という字です。つまりイエスの弟子たちが神の偉大な業を語るその声に、大勢の人が集まって来た、ということなのです。だから、続けて、「だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった(6節)」、という状況になったわけです。聖霊に満たされた者たちが、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした、それは、内面ではなくて、外に向かって機能したのです。つまり、教会は産声を上げた瞬間から、福音宣教を始めたということなのです。それゆえに福音宣教は、教会が教会であるための条件です。

 私たちが毎週献げています主日礼拝は、その福音宣教の最も重要な務めです。コロナ禍以降、ホームページの充実が図られ、今私たちの教会の御言葉の説教が毎週YouTubeで世界中に配信されています。他にもInstagramやFacebookが用いられて、教会の情報が発信されています。この時代、特にこのようなSNSと呼ばれるツールからあらゆる可能性を模索するのは大切なことでありましょう。しかし、何よりも、私たち一人一人の働きに主なる神様は期待してくださっているのではないでしょうか。時代がいくら変わっても、主なる神は全く変わることなく、その全能の御手によって、最も自由に私たちを用い、神の国を進展させてくださっています。“霊”が語らせるままに、神の偉大な業を語る、それは神が私を救いに導いてくださった経緯であったり、信仰生活での喜びであったり、永遠の命の確信であったり、神が私にしてくださった全てのことでもあります。信仰が与えられている以上、私がどの様な者であっても、必ず私たちは、聖霊に満たされているはずです。聖霊が与えられないで、信仰が生み出されることはありませんし、聖霊に満たされていないで、その信仰が最後まで守られることもないからです。ペンテコステの日に、聖霊に満たされた者たちは、この世から見れば、十字架につけられたナザレの男の信奉者に過ぎず、彼らは、この世的には何一つ優れた点さえなかったのです。あるいは、この後ペンテコステの説教者として用いられるペトロは、ほんの少し前にイエスを「知らない」と公の場で裏切った男です。優れた点どころか、マイナス要素しか持ち合わせていない者が、最も大切な働きを与えられたのです。つまり、ペンテコステの出来事で証明されたのは、福音宣教の主は、聖霊なる神であり、私たちはその器に過ぎない、ということなのです。

 その上で、大切なのは、今、私たちの教会で、このペンテコステの出来事が起こっているか、ということです、繰り返しになりますが、ペンテコステは、教会の誕生日であると言われます。しかし、誕生日として祝うことができるのは、今もそれが生きているからです。一年に一回ケーキに蝋燭を立ててハッピバースデーを歌うのはその主役が生きているからです。ですから、私たち、一人ひとりが、聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、神の偉大な業を語る、これが実現している時にこそ、私たちは、喜んで教会のハッピバースデーを歌うことができるのではありませんか。私たちは弱い者です、臆病な者です。他にも、あげればキリがないくらいポンコツです。しかし、御霊なる神は、その私たちを愛し、その弱さまで用いて、福音の宣教を実現されます。私たちに必要なのは、弱さに嘆くことではなく、その弱さを力に変えることがお出来になる聖霊なる神様に信頼することなのです。