2024年05月12日「聖霊降臨の預言と終わりの時」
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聖霊降臨の預言と終わりの時
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- 新井主一 牧師
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ヨエル書 3章1節~5節
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聖書の言葉
1節 その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。
2節 その日、わたしは、奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。
3節 天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。
4節 主の日、大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。
5節 しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように、シオンの山、エルサレムには逃れ場があり、主が呼ばれる残りの者はそこにいる。
ヨエル書 3章1節~5節
メッセージ
説教の要点
「聖霊降臨の預言と終わりの時」ヨエル書3:1〜5
本日の礼拝から、一度ヨハネ福音書講解説教を離れて、二週にわたって、ペンテコステに関係する御言葉から共に教えられたいと願っています。本日与えられたヨエル書の箇所は、ペンテコステの当日に、使徒ペトロが説教のために真先に引用した御言葉で、ペンテコステの出来事の証拠聖句と申し上げてよろしいでしょう(使徒言行録2:17〜21参照)。このペトロの時代は、当然新約聖書はまだ出来上がっていませんので、聖書といえば、今で言います旧約聖書だけでした。そういう状況の中で、ペテロの説教は語られたわけです。しかし、私たちの時代は、旧新両約聖書が完結していますので、この使徒言行録の経緯を知った上で、再び、ヨエル書の御言葉に戻って理解することができるわけでありまして、聖書解釈という点では、これ以上ない恵みの時代であります。しかし、同時に、この聖書が完結した恵まれた環境で、それでも尚、イエスキリストの福音を否むのなら、もはや救いのチャンスはあり得ない、という終わりの時代でもあるわけです。
では、その終わりの時代、私たちの時代に、ヨエル書の御言葉は、どのように響いているのか、次週のペンテコステ礼拝に先立って、今日は、それを共に確認したいと思います。
まず、ここでは、「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」、と始まります。ここでわが霊、と言われていますのは、神の霊のことでありまして、聖霊と言い換えることもできます。この「霊」という字は、ヘブライ語で「ルーアハ (רוּחַ)」という言葉で、これは創世記で真先に出て来る聖書全体の中でも非常に大切な言葉です(「神の霊が水の面を動いていた。」創世記1:2参照)。万物が創造される前から、永遠に先立って存在していた最も偉大なもの、それが神の霊なのです。その神の霊が注がれる、しかもここでは、その対象が、「すべての人に」、とされているわけなのです。これが、いかに偉大なことであるかを思い巡らしたいのです。しかも、 「その日、わたしは、奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ(2節)」と続きます。つまり、ここでは、老若男女、年齢、職業、地位、そのようなこの世的な区別とは全く無関係に「わが霊を注ぐ」、と主なる神は約束されているのです。これが、ペンテコステ以降の教会で実現してきたことです。
では、わが霊を注ぐ、と言うのは、そのペンテコステ以降の教会の歴史の中で、具体的にどのように実現してきたのか。これは、最初期の教会の時代に、世界宣教の扉を開くために用いられたパウロが、最も正確に記しています。「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。(1コリ12:12、13)」これです。神の霊が注がれる、それは、洗礼を受けて、キリストに結ばれること、これなのです。洗礼によって神の霊が与えられることによって、人種や身分を超えて、私たち一人一人が、キリストの一つの体とされるわけです(ガラテヤ3:26〜28も参照)。その時、ヨエル書の預言の通り、この世的な全ての区別、隔たり、障害が取り除かれて、キリスト・イエスにおいて一つにされる、という事態が起こるのです。そしてこれが教会なのです。神の霊が一人一人注がれる時に、そこに教会は生まれるのです。
さて、続いてヨエル書は、終わりの日の状況を描きます、「天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。主の日、大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。(3、4節)」、これは、古代の視点で描かれた世の終わりの状況を示す象徴的な表現です。しかし、今の時代の方がこの恐ろしい状況が容易に想像できるのではないでしょうか。「大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる」、これは、まるで今核戦争に怯える地上から、空を見上げたような状況です。数年前にも、お話ししたことがありましたが、アメリカの科学誌が毎年発表している「終末時計」、というものがございます。これは、真夜中の零時を人類滅亡の時とし、世界がそれにどれだけ近づいているかを示すものです。2024年度の発表では、残り90秒のところにその秒針があるようです。人類の歴史全体の中の90秒と言うのは、どのくらいの時間なのでありましょうか。
しかし、私たちキリスト者は、その終末時計の秒針にさえ怯える必要はないのです。それが、「しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように、シオンの山、エルサレムには逃れ場があり、主が呼ばれる残りの者はそこにいる。(5節)」、この約束です。この御言葉がある以上、この世がどのような状況にあろうとも私たちは平安であり、その救いは一切揺るがないのです。この「主の御名を呼ぶ者」、と言うのは、私たちキリスト者のことだからです。その上で、ここで気をつけなくてはならないのは、「シオンの山、エルサレム」、これは地理的な概念で、現在のイスラエル共和国が首都であると宣言しているあのエルサレムのことではないと言うことです。イエスキリストの十字架と復活、そして、その後ペンテコステで聖霊が降り、地上にキリストの教会が誕生した時に、「エルサレム」、それはキリストの教会を指し示す言葉となりました。ですから、「シオンの山、エルサレムには逃れ場があり」、と御言葉が言います時に、私たちのこの教会にこそ逃れ場がある、と言うことです。
ヨエルが預言した主の日、終わりの日は、主イエスご自身によっても繰り返されていまして、そこでは、世の終わりの決定的なしるしが示されています。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。(マタイ24:6〜8)」、実にこれは、今私たちが見ている風景ではないでしょうか。しかし、「まだ世の終わりではない」、と主イエスは断言されています。戦争や、飢饉、自然災害は、「すべて産みの苦しみの始まり」、に過ぎない、これが聖書の理解です。
では、世の終わりの決定的なしるしとは何か。それが、「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。(マタイ24:14)」、この通り、それは、福音宣教なのです。つまり、福音宣教が完成した時に、この世の終わりが来る、これが主イエスの約束であり、私たちキリスト者の立場です。この世を終わらせるのは、核兵器ではなく、自然災害でもない。それは、私たちが日々勤しんでいます福音宣教の務めである。ですから、私たちキリスト者にとって、この世の終わりとは、実はネガティブなものではなく、非常にポジティブなものなのです。福音宣教がこの世を終わりへと導くのですから。私たちが、いかに重大な使命に生かされているか、改めて思い巡らしたいのです。ペンテコステの日にこのヨエル書から、聖霊降臨の預言を紐解いたペテロはこのように言い残して、殉教していきました。「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。(Ⅱペトロ3:8〜13)」