2020年08月16日「来るべき裁き」
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来るべき裁き
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
使徒言行録 24章17節~56節
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聖書の言葉
さて、私は、同胞に救援金を渡すため、また、供え物を献げるために、何年ぶりかで戻って来ました。私が清めの式にあずかってから、神殿で供え物を献げているところを、人に見られたのですが、別に群衆もいませんし、騒動もありませんでした。ただ、アジア州から来た数人のユダヤ人はいました。もし、私を訴えるべき理由があるというのであれば、この人たちこそ閣下のところに出頭して告発すべきだったのです。さもなければ、ここにいる人たち自身が、最高法院に出頭していた私にどんな不正を見つけたか、今言うべきです。彼らの中に立って、『死者の復活のことで、私は今日あなたがたの前で裁判にかけられているのだ』と叫んだだけなのです。」フェリクスは、この道についてかなり詳しく知っていたので、「千人隊長リシアが下って来るのを待って、あなたたちの申し立てに対して判決を下すことにする」と言って裁判を延期した。そして、パウロを監禁するように、百人隊長に命じた。ただし、自由をある程度与え、友人たちが彼の世話をするのを妨げないようにさせた。数日の後、フェリクスはユダヤ人である妻のドルシラと一緒に来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスへの信仰について話を聞いた。しかし、パウロが正義や節制や来るべき裁きについて話すと、フェリクスは恐ろしくなり、「今回はこれで帰ってよろしい。また適当な機会に呼び出すことにする」と言った。だが、パウロから金をもらおうとする下心もあったので、度々呼び出しては話し合っていた。さて、二年たって、フェリクスの後任者としてポルキウス・フェストゥスが赴任したが、フェリクスは、ユダヤ人に気に入られようとして、パウロを監禁したままにしておいた。使徒言行録 24章17節~56節
メッセージ
説教の要約 「来るべき裁き」使徒言行録24:17~27
先週からアナニアたちの虚偽の告発に対するパウロの答弁の場面に入りました。両者を裁くために裁判官として座ったのが総督フェリクスでした。パウロの答弁の途中でフェリクスは、「千人隊長リシアが下って来るのを待って、あなたたちの申し立てに対して判決を下すことにする」と言って裁判を延期した。(22節)」このように割って入ってきました。これは、まず明らかにアナニアたちの告発が証拠不十分であったことの宣言です。「お前たちでは話にならない」、ということです。
そしてもう一つは、フェリクスのたくらみでありました。フェリクスは、法廷での証言を通して、パウロにただならぬ興味を持ったのです。ですから、すぐにフェリクスは、行動に移します。「数日の後、フェリクスはユダヤ人である妻のドルシラと一緒に来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスへの信仰について話を聞いた。(24節)」
フェリクスが総督に就任したとたんテロ活動が活発になりました。その鎮圧に手を焼いている困った現実が、彼の目の前にありました。そうかと思えば、他の属州の、特にユダヤ州なんかよりはるかに都会であるエフェソやコリントといった当時のローマ帝国領内の主要都市で、驚くべき現実が起こっていました。それは、十字架につけられて、3日後に復活したナザレのイエスを信じる者たちが急増しているという事実でした。
この二つの現実が目の前につきつけられていたフェリクスにとってテロ集団はこの世の闇であり、キリスト教は世の光のように見えたのではありませんか。その彼の許に、本物があちらからやってきたのです。ナザレのイエスの福音宣教者、しかもその「首謀者」と呼ばれたパウロが彼の許に舞い込んできた。これは、思いもよらぬ幸運であります。
ところが、フェリクスがキリスト教について抱く理想と現実の間には大きな乖離があったようです。
「しかし、パウロが正義や節制や来るべき裁きについて話すと、フェリクスは恐ろしくなり、「今回はこれで帰ってよろしい。また適当な機会に呼び出すことにする」と言った。(25節)」このように、パウロの説教の前にフェリクスは、恐ろしくなって、途中で耳をふさぎました。
では、どうしてフェリクスは、恐ろしくなったのでしょうか。それは、自分の立場が大きく揺り動かされたからです。彼は今のままでいたかったのです。「正義、節制、来るべき裁き」、この3つは、もしフェリクスがそのままでいるのなら、決して受け取れない真理であったのです。
或いは、パウロが、総督に忖度して、「そのままのあなたでイエスを信じてください。そうすればあなたは救われます」などと言ったらフェリクスは喜んで飛びついたでしょう。
しかしキリスト教は、そのままではだめなのです。まず何よりも先に悔い改めなければ救われないのです。悔い改めないで「ありのままで救われる」なんていうキリスト教は、キリスト教ではありません。
ですから、このフェリクスの回答は、悔い改められないことの表明なのです。
さて、そうこうしている間に時が過ぎ、ユダヤ総督が交替しました。
「さて、二年たって、フェリクスの後任者としてポルキウス・フェストゥスが赴任したが、フェリクスは、ユダヤ人に気に入られようとして、パウロを監禁したままにしておいた。(27節)」
パウロの裁判は一体どうなったのでしょうか。判決は出たのでしょうか。そのままなのです。裁判は延期されたままなのです。
「フェリクスは、ユダヤ人に気に入られようとして、パウロを監禁したままにしておいた」、これがフェリクスの裁きなのです。
彼はパウロをカードとして使ったのです。お膝元のカイサリアでは、ユダヤ系住民とギリシャ系住民の衝突が起こりました。結局ユダヤ人側を武力で鎮圧したフェリクスは、さらなるユダヤ人の抵抗を恐れていました。それで、彼らのご機嫌を取るためにパウロを拘束状態にしておいたのです。パウロはローマ法においては、確実に無罪のはずでした。
裁判官フェリクスは、パウロの裁きの責任を委ねられながら、そして法廷で真実を見抜きながら、自らの利益のためにそれを曲げ、パウロを不当に扱いました。しかし、この法廷では彼が実権を握っていたのでこの裁判官の悪事は当然不問に終わりました。もうこの総督を裁く者はいないのです。
ところがそれで終わりではないということなのです。それが来るべき裁きです。総督フェリクスが、地上においては、おとがめなしで悠々と過ごしても、最後にキリストの面前で、それが問われるのです。 パウロは、この出来事の少し前に執筆したローマ書で、このことをはっきり記しています。
「それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。~それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです(ローマ書14:10~12)。」
来るべき裁きにおけるキリストの面前では、総督も囚人もありません。王も皇帝もないのです。
「わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになる」、これが来るべき裁きなのです。だからフェリクスは、「来るべき裁きについて話すと、恐ろしく」なったのです。
この後、パウロはさらに法廷で立たされ、仕舞には皇帝に上訴します。今使徒言行録は、パウロがこの世の為政者に裁かれる場面にスポットを当てているのです。 その途中で、聖書は来るべき裁きを明確にしているのです。
つまりこういうことなのです。ここからさらにパウロは法廷に立たされ裁かれます。しかし、その裁きの座につく総督であれ、王であれ、実は、彼らはパウロの前に立っているだけではないということなのです。パウロを裁く彼らこそが、実はキリストの前に立たされているのです。裁判官である彼らを裁く主がおられるということを、この文脈の途中で、予め聖書は示しているのです。
そして、それは、キリストが今パウロともにおられるからなのです。だからパウロを裁くこの世の為政者は、キリストの前に立たされるということになるのです。これが私たちキリスト者の驚くべき特権なのです。他でもない最後の審判者キリストが、こちら側におられるということです。
十字架につくほどに私を愛してくださった主イエスが、罪人である私を見つけてくださり、信仰を与えてくださり、生涯最後まで共に歩んでくださるからです。私が罪を犯して苦しんでいる時でさえ、主イエスだけは私を弁護してくださるからです。主イエスは、私の救い主であり、友であり、弁護者なのです。その主イエスが、来るべき裁きにおいて、裁き主として面前に立った時、どうして私たちは恐れましょうか。十字架の救い主が裁き主なのです。私の弁護者が裁き主なのです。
来るべき裁き、その時こそ想像もできないくらいの喜びが与えられる瞬間ではありませんか。
私のために十字架で死なれ、生涯私を導いてくださった、主イエスと顔と顔を合わせて見えることが許されるからです(Ⅰコリント13:12)。来るべき裁き、それは私たちの希望です。
そして、その望みの時は、近いのです。「やすかれ、わがこころよ~のぞみの岸はちかし。讃美歌298-2」アーメン。