2024年01月28日「主御自身が建ててくださる(前)」

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主御自身が建ててくださる(前)

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
詩編 127編1節~5節

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1節 主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい。
2節 朝早く起き、夜おそく休み焦慮してパンを食べる人よ、それは、むなしいことではないか。主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。
3節 見よ、子らは主からいただく嗣業。胎の実りは報い。
4節 若くて生んだ子らは、勇士の手の中の矢。
5節 いかに幸いなことか、矢筒をこの矢で満たす人は。町の門で敵と論争するときも恥をこうむることはない。
詩編 127編1節~5節

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説教の要約

「主御自身が建ててくださる(前)」詩編127編1節~5節

毎年、この会員総会が開かれる主の日は、その年度の年間聖句から、御言葉の説教が与えられていまして、先週も予告しましたように、本日はヨハネ福音書の講解説教を一度中断して、詩篇127編から御言葉に聞いてまいります。この詩編127編は、段落が二つに分かれていますが、それに対応して、その内容も大きく二つに分かれています。最初は、本日この詩編の全体を学んで一回で年間聖句の説教を終了する予定でありましたが、すぐにそれが困難であることがわかりました。それで、今週と来週の2回に分けて、今週は年間聖句を中心に2節まで、次週は3〜5節までも含めた全体を教えられたい、と願っています。

本日与えられました2節までのキーワードは、「むなしい」この言葉で、三度繰り返されています。そして、いずれもその「むなしい」というのは、「主御自身」と無関係な営みを指しているわけです。

この詩編が謳われた背景にあるものは、バビロン捕囚後の神殿の再建でした。エルサレムに帰還した人々は、当然のことながら自分たちの生活を確保しなければなりません。ですから、彼らは、まず自分たちの生活の充実にエネルギーを使いました。その時、主なる神が言われた言葉が、ハガイ書に記されています。「今、お前たちは、この神殿を、廃虚のままにしておきながら、自分たちは板ではった家に住んでいてよいのか。(ハガイ書1:4)」、このように、ユダヤ人たちは、神殿再建工事という主なる神への奉仕と自分たちの生活を両立していかなければならなかったのです。そして、実に、これは、私たちの新会堂建築と同じです。私たちは、決して余裕があるわけではなく、むしろ切羽詰まった状況での生活を営んでいます。しかし、その現実の中でこそ、主なる神への奉仕が試されるのではないでしょうか。経済的に、そして時間的に余裕があるから会堂が建つのではないのです。逆です。経済的にも時間的にも余裕など全くない現実の中で会堂が建つから、「主御自身が建ててくださる」、と言えるのではありませんか。この信仰が、教会全体で共有されることが、大切です。

 さらに2節でも、「それは、むなしいことではないか」、と繰り返されて、その対象となっていますのが、「朝早く起き、夜おそく休み焦慮してパンを食べる人」であります。これは最も簡潔に言い換えてみれば「勤勉な人」ではないでしょうか。しかし、むしろ、私たちの教会の中にもこのような方はおられるし、日本キリスト改革派教会という私たちの教派は、このような勤勉なキリスト者が用いられてここまで成長してきたのではないでしょうか。もちろん、これは、そのような勤勉な人を批判しているのではありませんし、そのような労働が余計なことだと言っているのでもありません。 「朝早く起き、夜おそく休み焦慮してパンを食べる人」、これは、1節との連続性の中で語られていることは明らかです。「主御自身が建ててくださる」、「主御自身が守ってくださる」、これを度外視した勤勉さ、それが「むなしいことではないか」、と指摘されているのです。ですから、ここで「焦慮してパンを食べる」とありますが、この「焦慮して」という字は、もともとのヘブライ語では、「傷つけること」あるいは、「苦痛」を意味する言葉であり、新改訳聖書では、「辛苦の糧」と訳されていて、こちらの方がわかりやすいと思います。主なる神様は、わたしたち人類を、天地万物を創造されたその最後に、創造の冠として創られました。食物が満ち足りた素晴らしい環境が、私たち人類の生活の場としてあらかじめ用意されていたのです。その主なる神は、私たちに「辛苦の糧」を望んでおられるでしょうか。いいえ、そんなはずはございません。むしろ、勤勉な務めの報いとして用意されているものが、飲んで、食べる、その私たちの食卓のはずです。

 さらに、「主は愛する者に眠りをお与えになるのだから」、と続くところが重要です。これは、「辛苦の糧」のむなしさの理由にされています。実は、これもそれぞれの日本語訳の聖書で、ニュアンスが大きく変わってきます。先ほど挙げました新改訳聖書では「主は、愛するものには、眠っている間にこのように備えてくださる」、と訳されています。あるいは、フランシスコ会訳聖書は「主は、愛する者が眠っている時でさえ、お与えになる」と訳します。これらはいずれも、単に眠りを与えてくださるのではなくて、眠りという私たちが何もできない時間に、主なる神様が、必要なものを備えてくださる、そういう立場です。

 「主御自身が建ててくださる」、「主御自身が守ってくださる」、この信仰に立ちます時、私たちがまどろみ、休んでいる時でさえ、主なる神様は、働いておられて、私たちの必要を満たしてくださる、このことが起こるのであります。

 バビロン捕囚から帰還したユダヤ人たちに課せられたエルサレム神殿の再建、これは大変な労働であったはずです。朝早くから夜遅くまで、長い年月を費やして、彼らは勤勉に働き続けたのです。あるいは、異民族の妨害に備えて、交代交代に寝ずの番を続けて、建築途中の神殿を守ったのです。ですから、彼らは、人間の労働なしに神殿が建たないこと、あるいは夜回りという労苦がなければそれを守ることができなかったことを痛いほどよく知っています。これは、私たちも同じです。私たちの全ての献身が用いられて、神の家は建てられていくのです。

そこで大切なのは、それでもなお、「主御自身が建ててくださる」、最後までこの御言葉に立ち続けることであります。その時、私たちの想像を遥かに超えた、神の御業の目撃者とされるのではないでしょうか。計り知れない神のお働きに、圧倒されるのではないでしょうか。そのような経験が、信仰生活の中で繰り返されること、それが「主御自身が建ててくださる」という御言葉の示す本当の意味ではないでしょうか。あるいは、新しい会堂が建てられるのは、その一つに過ぎないのかもしれません。「主御自身が建ててくださる」、これは永久までも続けられる主なる神のお働きだからです。

 年報でもお願いしたのですが、ワクワクしていただきたいのです。主御自身が建ててくださるのですから。そして、主御自身が建ててくださるのである以上、必ず必要は満たされます。いいえ、すでにそれは用意されているはずなのです。私たちがまどろんでいる間も、なくてはならぬものを与えてくださるのが、私たちの主だからです。大切なのは悩むことではなく、ワクワクすることではないでしょうか。十字架の主イエスによって救われ、永遠の命に与るものとして招かれた罪人、これが私たちの教会の構成員です。その場合、経済的な事情は全く問題にされません。多く献げることができる方もおられましょう。全く献げられない方もおられましょう。それは主なる神に委ねられた賜物の違いです。献げものが多かろうが、少なかろうが、同じキリストの羊であり、新会堂建築のためになくてはならない構成員です。全ての信徒にワクワクしていただきたい。それ以上は望みません。新しい会堂の設計図、完成予想図を見るたびに、毎週の礼拝を献げるたびに、新会堂のために祈るたびに、信徒同士で語らうたびに、ワクワクしていただきたい。そのワクワクは、信仰を持たない大切な家族や友人にも伝わるはずです。「主御自身が建ててくださる」、その信仰の証は、私たちのこの堪えきれないような喜び以外ではないのです。