2020年08月09日「虚偽 対 真理」
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虚偽 対 真理
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
使徒言行録 24章10節~16節
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聖書の言葉
総督が、発言するように合図したので、パウロは答弁した。「私は、閣下が多年この国民の裁判をつかさどる方であることを、存じ上げておりますので、私自身のことを喜んで弁明いたします。確かめていただけば分かることですが、私が礼拝のためエルサレムに上ってから、まだ十二日しかたっていません。神殿でも会堂でも町の中でも、この私がだれかと論争したり、群衆を扇動したりするのを、だれも見た者はおりません。そして彼らは、私を告発している件に関し、閣下に対して何の証拠も挙げることができません。しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。使徒言行録 24章10節~16節
メッセージ
説教の要約「虚偽 対 真理」使徒言行録24:10~16
本日の御言葉は、アナニアたちの告発に対するパウロの答弁が記録されています。
このパウロの答弁の中心は、「しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。(14節)」この部分です。この「はっきり申し上げます」、という言葉が聖書的に特に大切なのです。これは、「公に言い表す」、という意味で、聖書でイエスキリストに対する信仰を公的に表明する場面で使われるからです。パウロは、この数か月前に書いたローマ書で、この言葉を用いて非常に大切な信仰告白の真理を語っています。
「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。(ローマ10:9、10)」ここで繰り返されています「公に言い表す」、という言葉が、本日の御言葉の「はっきり申し上げます」、と同じ言葉です。「イエスは主であると公に言い表す」、これはまさに私たちの最も大切な信仰告白です。つまり、この公に言い表す、或いは、はっきり申し上げます、これは聖書的に、その後続く信仰告白を準備する言葉なのです。ですから、本日の箇所で、はっきり申し上げます、とパウロが証言を始めます時、その後彼の信仰告白が続くわけなのです。
その信仰告白は、まず「先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています」、これは唯一の神への信仰告白と聖書全体の信仰告白です。
もう一つは、「更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。(15節)」これは復活信仰の告白です。そしてこれらが神の民イスラエルの正統信仰でした。
『ナザレ人の分派』すなわち、異端である、と蔑まれたパウロは、それに真っ向から立ち向かい、一歩も譲らず、『ナザレ人の分派』すなわち主イエスの福音宣教こそが、神の民イスラエルの正統信仰であることを宣言したのです。
むしろ、ここでは、異端なのは、アナニアたちのサドカイ派である、とパウロは言いたいのです。
サドカイ派は、聖書全体を信じず、復活信仰も否定していました。彼らは、モーセ5書と呼ばれています旧約聖書の最初の5つの書だけを信じて、あとは蔑ろにしていました。これこそが異端、分派です。彼らの関心事はこの世の富や名誉であり、その場合、聖書には形式的な律法があれば十分であったからです。彼らはモーセの律法で自分たちを正当化し、御言葉に悔い改めるのではなく、御言葉を利用していたのです。
パウロは、聖書信仰、そして復活信仰を宣言し、彼の福音宣教こそが、神の民ユダヤ人の正統信仰であることを宣言しました。しかし、それでは終らないのです。まだ続きがあるのです。その正統信仰は思想ではないからです。聖書全体を信じ、復活信仰に立つ時、必ず「神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努める(16節)」、という現実が、生活の中で立ち上がるのです。
聖書を信じます。復活を希望します。ところが生活はそのままです。これはあり得ないのです。
ですから、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努める、これは言い換えれば、悔い改め続ける、ということです。良心の源は聖書であります。ですから良心を絶えず保つように努めるためには、御言葉によって悔い改め続ける以外ないからです。
すなわち、パウロは、『ナザレ人の分派』と呼ばれたキリスト教が、聖書全体を信じ、復活の希望を抱き、御言葉によって悔い改め続ける道であることをここで表明したのです。そして、これが「この道」です。これが、キリスト教なのです。
道は歩くためにあります。キリスト教信仰が、真っ先に「この道」と呼ばれたのは、そこに信仰の歩みが伴っていたからなのです。彼らは突っ立っていなかった、歩いていたのです。
本日は、「虚偽 対 真理」という説教題が与えられました。それは、アナニアに雇われた雄弁家テルティロの虚偽の告発に対して、パウロが真理によって立ち向かったからです。雄弁家テルティロは、人の感情に訴えたり、大げさな表現を用いたりして、パウロを抹殺しようとたくらみました。しかし、結局偽りは偽りで、何の説得力もありませんでした。
それに対して、パウロは自らの信仰を正々堂々と法廷で公に表明しました。
ここで大切なのは、信仰とこの世の真実は矛盾しないということですキリスト教信仰は、この世の法廷においても真実と一致するのです。信仰に立って証言する以上、嘘をつく必要などさらさらない、堂々と自らの生活についても証言できるのです。人の感情に訴える必要もなければ大げさな表現もいりません。ただ信仰に立って真実を証言すれば、それに勝るものはないのです。それがこのパウロの姿です。
その戦いの口火を切った言葉が、「はっきり申し上げます(14節)」でありました。そしてこれは、聖書においてイエスキリストに対する信仰を公的に表明する場面で使われている、と申し上げました。
面白いことに、実は、イエスキリストに対する信仰を公的に表明できない者にもこの言葉が使われているのです。「とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。(ヨハネ12:42、43)」
この「公に言い表さなかった」、この言葉です。主イエスが十字架につけられる少し前、「議員の中にもイエスを信じる者は多かった」、このように聖書は言うのです。しかし、彼らは、「会堂から追放されるのを恐れ、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだ」ために「公に言い表さなかった」のです。すなわち、本日の御言葉のキーワードであります「はっきり申し上げます」、これはこの世の誉れではなく、神からの誉れを選ぶ者だけが口にする言葉なのです。そして、それが信仰告白なのです。それが、「イエスは主である」、という言葉なのです。
信仰告白はスローガンではありません。私たちが人間からの誉れではなく、神からの誉れを選んだことを表明する言葉です。この私の人生全体をかけた現実であります。
パウロそしてルター、カルヴァン、さらに改革派教会の信仰の先駆者たちは、全てこの現実に立ったのです。彼らが特別に強かったわけではありません。皆、私たちと何ら変わらぬ弱い人間でした。しかし、信仰は強いのです。私は弱い、しかし、信仰は強い。信仰は真理と一致するからです。
私たちは、キリストへの信仰を公に表明した以上、すなわちキリスト者として「この道」を歩みだした以上、この世におきまして、逃げる必要もなければ、隠れる必要も一切ない。信仰の道は、真理の道となるからです。これがキリスト教です。正々堂々と天を仰ぎ前進しようではありませんか。