2023年12月03日「わたしはアルファであり、オメガである」
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わたしはアルファであり、オメガである
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
ヨハネの黙示録 1章1節~8節
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聖書の言葉
1節 イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。
2節 ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした。
3節 この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。
4~5節 ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、
6節 わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。
7節 見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、/ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。
8節 神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」
ヨハネの黙示録 1章1節~8節
メッセージ
説教の要約
「わたしはアルファであり、オメガである」ヨハネ黙示録1:1~8
今年のアドベントの期間中、私たちは、毎週ヨハネの黙示録の御言葉によって、信仰を養われたいと願っています。本日私たちに与えられた聖書箇所は、このヨハネの黙示録のプロローグ部分でありまして、その初めから、強烈に信仰者の心を捉える御言葉が続きます。非常に大切な箇所でありますので、このプロローグ部分は、今週と来週に分けて、今週は3節までを中心に、そして次週は4節以下を中心に教えられたいと願っています。
ここで特に大切なのは、このヨハネの黙示録の啓示が、「すぐにも起こるはずのこと(1節)」、さらに「時が迫っているからである(3節)」、とその緊急性が繰り返されていることです。
この「時」、というのは、言うまでもなく「終わりの時」であります。大方の見方として、このヨハネの黙示録が執筆されたのは、ドミティアヌス帝の時代で、紀元90年から96年の間である、と言われています。世界は「パクスロマーナ」の時代でありました。この大平の世を世界史の中で最も平和であった時代、とまでいう歴史家もいますが、強ち間違いではないでしょう。しかし、一方、キリスト教会にとっては困難な時代であり、一日も早くキリストの再臨の日が来てほしい、と全てのキリスト者が熱心に祈り続けていたのです。その現実の中で、「すぐにも起こるはずのこと」、さらに「時が迫っているからである」、というのは、緊張感よりも、慰めを与える言葉であったのです。
しかし、その時代から、もうすぐ2000年が経とうとしている今も、まだその時は来ていません。相変わらず、この世は続いています。ですから、同時に、ここでは、実現するはずの御言葉が、未だ実現していないという矛盾も生じるわけです。聖書が、「すぐにも起こるはずのこと」、と言っているのに、すぐに起こらなかったからです。しかし、この矛盾は、聖書の御言葉によって簡単に解決される問題ではあります。「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。る人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。(Ⅱペトロ3:8、9)」、このとおりです。「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」、即ち、2千年であろうが、3千年であろうが、あるいはたった1日であろうが、私たちの時間の概念とは全く違う時間を主なる神様は持っておられる、ということなのです。しかし、これにて一件落着、と私たちは言えましょうか。それで終わらせてはならないと思います。実際、2千年前の最初期の信仰者たちは、今すぐにでも主イエスが来てくださるという信仰に立っていたからです。パウロもペトロも、或いはこのヨハネも皆、終末が非常に近いことに慰めを与えられて、それを原動力に福音宣教に仕えたのです。つまり、彼らは間違えていたのです。実際、大きな勘違いをしていたのです。しかもその誤差は2千年にも及ぶわけです。しかし、この2千年の誤差に、最初期のキリスト者の信仰の愚直さがあるのではないでしょうか。その信仰は、2千年の誤差があろうともびくともしなかったのです。そして、当然、御言葉は、何一つ変わっていない。その必要がないからです。
実に、現代を生きる信仰者である私たちにとって、最も足りないのがこの信仰ではありませんか。
「時が迫っているからである」、これが今、私たちにとって慰めになっているでしょうか。ヨハネの黙示録のプロローグは、今日私たちにこのことを問うています。私たちには、それぞれ生活があり、夢があり、計画があり、希望がある。しかし、それらをはるかに超えた素晴らしいキリストの日が近づいている、このことに私たちは喜びを感じていますでしょうか。或いは、「時が迫っているからである」、と言われて恐怖を感じてはいないでしょうか。それは、主イエスの誕生を聞いて、不安を抱いたヘロデ王や、その取り巻き、あるいはユダヤの富裕層の立場です(マタイ2:1〜3)。彼らは、今の時代がずっと続くことを願っていたので、そこにメシアが来られては困るのです。
実は、このローマの平和の時代は、現代私たちが生きているこの時代に似通った部分が多々あります。ローマ帝国は、その権力をかざしながらも、表向きには至って寛大でありました。彼らは通常は、支配下の地域の自治を、その国民に任せ、外敵を武力で圧倒し、ローマ帝国の支配下に生きることは、平和なことである、と思わせようとしていました。市民権を持った人たち、地主のような富裕層には、それは確かにパクスロマーナでありました。その一方、帝国の支配下の貧しい人たちは、重税で苦しみ、明日の生活さえも保証されない状況で喘いでいました。主イエスが愛されたのはこういう人々です。そして、この二極化は、そのまま私たちの時代です。武力を盾にした危うい平和の中で、健康に豊かに暮らす多くの人がいる一方で、貧困と病が蔓延り、児童虐待は後を絶たない。ある一部の人の繁栄が、多くの人の汗や苦しみの上に築かれている。海の外に目を向ければ、自分たちの命を守るために祖国を離れ、実際、今や何億もの人々が、衣食住のあてがない厳しい状況の中で生活されています。このような立場の人々は、「時が迫っているからである」と言われて希望を抱くのではないでしょうか。私たち先進国と呼ばれる国のキリスト者が、最も気を付けなければならないことは、この世の豊かさに惑わされることです。それが、アドベントの信仰を曇らせるからです。そして、いつの間にか、富が神の位置に座って私たちを支配しようとするからです。
「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。」これが、今私たちのこの群れの現実になっているか、ここに私たちの希望があるか、それが、現代を生きる教会の健康のバロメーターです。そして、これこそが特にアドベントの最初の主の日に確認しなければならないことではないでしょうか。
本日は、「わたしはアルファであり、オメガである」、という説教題が与えられました。アルファというのは、ギリシア語アルファベットの最初の字であり、オメガ、というのは、その最後の字であります。ですから、言い換えれば、「私は初めであり終わりである」、そういう意味です。しかし、それは決して、最初に天地万物を創造して、最後にそれを破壊する、という意味ではございません。「わたしはアルファであり、オメガである」、と主なる神様が言われますとき、その間にある、ベータからプーシーまでの22の文字もすべて含まれるのです。ですから、天地創造から、世の終わりまでのすべての期間がここで示されているわけです。また、「わたしはアルファであり、オメガである。」、これはギリシア語の本文では、文頭にあの「Ἐγώ εἰμι=私はある」という生ける真の神の称号が刻まれた上で、「アルファ〜オメガ」と続くのです。つまり、「わたしはアルファであり、オメガである。」ここで言われていますことは、この歴史の全局面において「私はある」と神の威厳が輝いているのです。そして、この約束が、私たち罪人との関係で実現したのが、主イエスキリストの出来事であります。アルファであり、オメガである神御子が、この世に貧しい姿で生まれ十字架で死んで下さった。その時、「主ともにいます」、すなわち、インマヌエルが私たちの現実とされたのです。「わたしはアルファであり、オメガである」、これがインマヌエルにその姿を変えて実現したのが、クリスマスの福音であります。