パウロは彼の計画通りのGo to travelができませんでした。むしろそれは、Go to troubleになっていたのです。しかし、それでも尚彼はその目的地に向かっている、神様にleadされて。信仰の歩みは、Goではなく、leadであるということです。
人は、なかなか思い通りに生きてくことができないものです。それどころか、まさかと思う事態に巻き込まれて行きます。私たちの人生もGo to travelがGo to troubleに代わることがしばしばあります。しかし、私たちキリスト者は、思い通りにいかなくても、たとえ最悪だと思われる事態に巻き込まれても、私たちの希望は何ら変わらない、それは、それでも尚、神様にleadされていることを疑いえないからです。今私が歩んでいる現実は、神様のleadによって与えられている、これが私たちの信仰です。
説教の要約「主の導き」使徒言行録23:23~35
本日の御言葉は、兵営の中で、パウロの甥からユダヤ人たちの陰謀をそっくりそのまま聞きつけた千人隊長が起こしたアクションから描かれていきます。
千人隊長は、「今夜九時カイサリアへ出発できるように、歩兵二百名、騎兵七十名、補助兵二百名を準備せよ(23節)」と百人隊長に指示します。囚人パウロ一人を護送するために、歩兵二百名、騎兵七十名、補助兵二百名を準備させたのです。相手は暗殺集団とはいえ、たかだか40名です。その40名に対して、なんと10倍以上の470名の兵士でパウロの周囲を固めたのです。何とも大げさな大軍がエルサレムからカイサリアへと向かうわけです。
さらに千人隊長は、カイサリア在住のユダヤ総督フェリクスに手紙をしたためます(26~30節)。
この手紙の内容は、千人隊長に有利なように操作されており、総督に対してローマ帝国の市民権を持つ男をユダヤ人から救いだしたという手柄をアピールするものでした。
先週の聖書個所でパウロは、自分の命を救うために最善策を見つけ、極めて積極的に行動しました。しかし、本日の御言葉におきましてパウロは、何もしていません。千人隊長リシアの計画で護送され、囚人として総督フェリクスのもとに届けられただけの話です。
実は、パウロにはパウロの計画があったのです。パウロは、エルサレムで逮捕され、今カイサリアに護送されているそのほんの数か月前、ローマ訪問の計画をローマ書のエピローグ部分で記しているのです(ローマ書15:22~29)。このローマ訪問計画は、パウロの期待と信仰と情熱で満ち溢れています。これは、彼の祈りそのものでもあったはずです。
しかし、その計画は、そのわずか数か月後、いとも簡単に打ち砕かれました。
それでも尚、彼は今ローマに前進しているのです。これが神の導きです。
今日はこのパウロの姿から神の導きについて、3つのことを教えられたいと思います。
一つ目、神の導きはGo to travelではないということです。
パウロは彼の計画通りのGo to travelができませんでした。むしろそれは、Go to troubleになっていたのです。しかし、それでも尚彼はその目的地に向かっている、神様にleadされて。信仰の歩みは、Goではなく、leadであるということです。
人は、なかなか思い通りに生きてくことができないものです。それどころか、まさかと思う事態に巻き込まれて行きます。私たちの人生もGo to travelがGo to troubleに代わることがしばしばあります。しかし、私たちキリスト者は、思い通りにいかなくても、たとえ最悪だと思われる事態に巻き込まれても、私たちの希望は何ら変わらない、それは、それでも尚、神様にleadされていることを疑いえないからです。今私が歩んでいる現実は、神様のleadによって与えられている、これが私たちの信仰です。
禍も幸も神様と無関係には与えられない、それが、今、期待に胸膨らませて立てた計画がもろくも壊され、それでもなお前進するこのパウロの姿で教えられるのです。
2つ目、それでも尚、この神様の導きは、私たちの想像をはるかに超えたものであるということです。パウロがローマ訪問の計画を立てた時、彼の頭の片隅にでもあったでしょうか、470名の兵隊に守られてローマへの旅を始めることが。しかも、実はそれだけではないのです。この隊列の極めつけは、「また、馬を用意し、パウロを乗せて、総督フェリクスのもとへ無事に護送するように命じ(24節)」これです。まるで、囚人パウロがこの部隊の隊長のような姿にされて護送されるわけです。これはあくまでも千人隊長リシアが、40人の刺客からパウロを守り、手柄を立てるための奇策です。しかし、そのようなこの世の支配者の愚かな感情さえも用いて神様は、パウロをローマへ導いているのです。
全能の神は、闇を光に変え、悪を善に変え、禍を幸に変えられるのです。これが神の導きです。主なる神様は、私たちの不幸でさえ、幸いに変えられ、道を備えられるのです。
3つ目は、その導きがこの世的には何ともつまらない囚人パウロに与えられた、という慰めです。
実は、多くの聖書学者が、エルサレムで逮捕され、それから生涯囚人とされた時点で、パウロは終わったと説明します。それは、パウロのほとんどの弟子たちは、ここで散らされて消えてしまい、これからパウロも囚人として護送され、しばしば牢での生活を余儀なくされ、積極的に行動できなくなったからです。さらに、この後パウロに与えられた生涯の日はわずかであり、ローマにはたどり着いたものの、結局囚人として処刑されてしまったからだ、というわけです。
この世の視点で見れば、それらはことごとく正解でしょう。
しかし、神の言葉は、彼らと正反対の理解を示しています。
聖書は、パウロは終わったのではなく、始まったというのです。
今パウロによって、あの暗闇で与えられた主イエスの言葉が実現しているからです。
「その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。(23:11)」
これが今始まり、使徒言行録の最後まで続いていくのです。聖書学者、そしてこの世の人から見れば、老いぼれであり、囚人であるパウロが、改めて今主イエスに用いられるのです。
今パウロは、終わりではなく、始まりなのです。
キリスト者に「終わった」、はありません。あるのは、始まりだけです。
加えまして、本日の御言葉で470名の兵士がパウロを守った、と記録されています。しかし、実は、それで驚いてはならないのです。それは肉の目で見た武力集団にすぎません。
神の導きは、そんなちっぽけなものではありません。信仰の目を開いた時、470名の兵士など、ものの数ではないのです。今、実に天の大軍がパウロを導いているからです。
信仰の目を開いた時、神の民であるキリスト者の周りは、天の大軍で囲まれている、これが聖書の約束です。預言者エリシャにはそれが見えていました(列王記下6:15~17を是非ご覧ください)。
私たちは、たった一人の信仰者のために、天の大軍が、そして、その精鋭部隊が駆けつけていることを信仰の目で見なければならないのです。
主イエスと一体であるキリスト者である以上、どうしてこの精鋭部隊と無関係な時がありましょうか。主イエス様ご自身が万軍の主であるからです。
私たちは470名の地上的勢力などには目をとめず、天の大軍に守られている事実を仰ぎ見るべきです。もうすでにこの世においては晩年といえるパウロ、囚人であるパウロ、この世が終わったというパウロ、そのたった一歩の歩みでさえ、神は全能の力で支えるのです。
これが主なる神の導きです。