2020年07月19日「キリスト者の勇気」
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キリスト者の勇気
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
使徒言行録 23章11節~22節
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聖書の言葉
その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」夜が明けると、ユダヤ人たちは陰謀をたくらみ、パウロを殺すまでは飲み食いしないという誓いを立てた。このたくらみに加わった者は、四十人以上もいた。彼らは、祭司長たちや長老たちのところへ行って、こう言った。「わたしたちは、パウロを殺すまでは何も食べないと、固く誓いました。ですから今、パウロについてもっと詳しく調べるという口実を設けて、彼をあなたがたのところへ連れて来るように、最高法院と組んで千人隊長に願い出てください。わたしたちは、彼がここへ来る前に殺してしまう手はずを整えています。」しかし、この陰謀をパウロの姉妹の子が聞き込み、兵営の中に入って来て、パウロに知らせた。それで、パウロは百人隊長の一人を呼んで言った。「この若者を千人隊長のところへ連れて行ってください。何か知らせることがあるそうです。」そこで百人隊長は、若者を千人隊長のもとに連れて行き、こう言った。「囚人パウロがわたしを呼んで、この若者をこちらに連れて来るようにと頼みました。何か話したいことがあるそうです。」千人隊長は、若者の手を取って人のいない所へ行き、「知らせたいこととは何か」と尋ねた。若者は言った。「ユダヤ人たちは、パウロのことをもっと詳しく調べるという口実で、明日パウロを最高法院に連れて来るようにと、あなたに願い出ることに決めています。どうか、彼らの言いなりにならないでください。彼らのうち四十人以上が、パウロを殺すまでは飲み食いしないと誓い、陰謀をたくらんでいるのです。そして、今その手はずを整えて、御承諾を待っているのです。」そこで千人隊長は、「このことをわたしに知らせたとは、だれにも言うな」と命じて、若者を帰した。使徒言行録 23章11節~22節
メッセージ
説教の要約「キリスト者の勇気」使徒言行録23:11~22
本日の御言葉は、「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。(11節)」このキリストの慰めと宣教命令がパウロに与えられたその夜が明けた次の日の出来事が記されています。
一夜明けますと、昨夜のイエス様の言葉が、儚い夢のように消えてしまう事態になっておりました。夜が明けると、すぐさまパウロの暗殺計画が出来上がったのです。しかもその暗殺計画は、決死の覚悟でパウロの命を狙う40名の刺客(13節)とユダヤの指導者たち(14節)が結集し実行されるもので、パウロの命は風前の灯火となりました。
神である主イエスがパウロに勇気と宣教命令を授けていた裏側で、神の民であるはずのユダヤ人が結集して、その宣教命令を挫くために陰謀を立てていた、ということです。
暗闇で主イエスは希望を与えられました。しかし、その同じ暗闇に、サタンもまぎれていたということです。私たちは、主イエスの希望が与えられるその同じ暗闇に、サタンもうろついていることを知らなければなりません。
ところが、ここで彼らにとって予想すらしないことが起こります。パウロの姉妹の子という若者が突如登場し、この陰謀を聞きつけ、即パウロに伝達したのです。
この若者は、この記事だけの登場人物で、後にも先にも出てきませんし、実はパウロの家族や親族についての言及は聖書でここだけです。その何とも地味な存在の若者が、ここから大切な働きをするのです。
これが主なる神の御業ではないでしょうか。ユダヤ人たちの役者がそろって立てた陰謀を、たった一人の無名の若者が台無しにするのです。これが聖書の論理です。聖書全体を貫いて、主なる神は、弱い者、小さい者、この世的には何ともつまらない者を用いて、偉大な御業を行われるのです。
ですから、今、私たちが弱く小さいことは、聖書的に何ら問題ではないのです。
この若者の報告は、パウロから百人隊長、そして千人隊長へと伝わって行きます(17~21節)。ここでパウロは、大騒ぎにならずにこの情報が千人隊長の許に届くための最善策をとったのでしょう。
本日の箇所では、闇の中で計画されたユダヤ人の陰謀が、スリリングな展開ではありますが、すぐさま潰されていく場面が描かれているのです。
この記事を通して2つの大切な信仰の性質が描かれています。
一つ目、実に本日のこの出来事は、11節で、主イエス様が、パウロに「勇気を出せ」と語りかけた直後に起こった、ということです。その後主イエスは、「エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」とこのようにパウロに命じました。すなわち、本日の出来事は、その第一歩であった、ということです。
エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない、と主イエスが言われた直後、40名の暗殺者が立ち上がったのです。
寝耳に水とはこのことです。パウロにとってみれば、思いもよらぬ大ピンチ、崖っぷちです。しかもまだローマは遥に遠いのです。むしろ、ローマに向けてまだ一歩も踏み出さない前に、最大の命の危機にさらされた、ということです。
パウロは「勇気を出せ。」と主イエスに励まされたとたんに、厳しい現実に囲まれていたことを知ったでしょう。しかし、だからこそ「勇気を出せ。」なのです。
先週確認しましたように、聖書的に勇気とは、自信ではなく信頼です、信仰なのです。
自分の中に何一つ勇気を出す要素がない時、私たちは本当の勇気が何であるかを知るのです。それが信仰であると。
パウロは、絶体絶命の危機にさらされて、それを真っ先に教えられたのではないでしょうか。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない、その勇気は、ただ信仰である、ただイエスである、と。
しかし、それでも尚、2つ目、その信仰とは「全て主の思し召し」のような呑気な代物ではないということです。
ここでパウロは、自らの命を守るために、極めて積極的に行動しています。パウロは、自分の命を守るために最善策を取ったのです。なんとしても生きようとしたのです。
これが真の勇気ではないでしょうか。勇気は信仰です。しかし、その信仰は妄信ではないのです。私たちの信仰は、自分自身も、この世の全てのものも神の支配下にある、という全面的な神への信頼、言い換えれば健全な摂理信仰です。
そして、それは、神がそのすべてのもの、私の小さな手の働きでさえも用いて道を切り開いてくださることを疑わない信仰です。その信仰に立つのがキリスト者の勇気です。
すぐる5月12日、私たちの群れから大切な兄弟が、15年間にわたり病と戦い抜いて、天の故郷に召されました。
兄弟は、天に召される少し前に、体力がさらに低下して、自宅からの通院が不可能になったので、メディカルハウスに移られました。私は以前から毎週メールで説教原稿を配信してきたのですが、その時いただいた返信が忘れられません。次のように記されていました。
いま、み言葉の説教から大きなことを学びました。
今週も新たな希望のもとに一歩ずつ踏み出します。
ありがとうございました。
あらためて、真の信仰を教えられた気がいたしました。
いよいよ体力が落ち、住み慣れた我が家を離れ、さらに厳しい治療を始めた時、この信仰者は、御言葉から新たな希望を得て、新しく生きようとされているのです。
或いは、この場所が彼に与えられた兵営だったのでしょうか。いよいよ、病との最後の戦いが始まるわけです。しかし、その兵営で病との戦が始まる時、この信仰者は、積極的に生きようとしている。新たな希望のもとに一歩ずつ踏み出します、と前を向いているのです。
死ぬことなど全く興味を示されず、最後まで生きようとしているのです。
私は、この信仰者の姿に、本日の招きの詞で与えられました「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。」この御言葉が立ち上がりました。
パウロにとってもこの兵営での出来事は、死の陰の谷を行くときであったでしょう。
しかしその殺伐とした死の陰の谷に、百合を見つけるのが信仰者です。その場所で天を仰ぐのが信仰です。それは兵営の中で主イエスを見ること、兵営の中で御言葉に立つことです。
私たちの本国は天にあります。この世はあくまでも仮住まいの場所であります。
すなわち、今日ここから私たちが遣わされるそれぞれの持ち場、そこが私たちの兵営です。
天の故郷に帰るまで、私たちは、この兵営の中で、知恵を用いて信仰生活を続けるのです。