2023年05月28日「ペンテコステの勧告」

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ペンテコステの勧告

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
使徒言行録 2章36節~42節

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聖句のアイコン聖書の言葉

36節 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
37節 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。
38節 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
39節 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
40節 ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。
41節 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。
42節 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。使徒言行録 2章36節~42節

原稿のアイコンメッセージ

説教の要約

「ペンテコステの勧告」使徒言行録2:36~42

本日は、ペンテコステ礼拝でありまして、先週お断りいたしましたように、一度ヨハネ福音書の講解説教を離れて、使徒言行録から御言葉が与えられています。

その本日の御言葉は、ペンテコステの日に語られたペトロの説教の結論と、その説教がもたらした結果が描かれている場面で、ペンテコステの出来事の結論部分と言える非常に大切な箇所です。

ここで、「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。(36節)」、とペトロは、説教を終えます。結局ペトロは、これが言いたくて、ここまで語ってきたわけです。恐らく、今、この説教を聞いている者で、ナザレのイエスの十字架を知らない者は少なかったでしょう。今彼らは、「あなたがたが十字架につけて殺したイエス」と言われて何を思ったでしょうか。手続き上は、ローマ総督ポンテオピラトの裁判で十字架刑が確定して、ナザレのイエスは十字架に付けられました。しかし、それは、祭司長や民の長老に扇動されたユダヤの群衆が、「十字架につけろ」、とわめきたてて、手の施しようがなかったからです。或いは遠目からその一部始終を見物しているだけの者や、通行人も多かったでしょう。しかし、ここでは、そのような各自の細かい責任の所在は、全く問題とされていません。

 ポンテオピラトであろうが、祭司長であろうが、通行人であろうが、「あなたがたが十字架につけて殺したイエス」、とここでは告発されているのです。

 ところが、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」、と続くのです。ここでは、人間の罪と神の御業が対照的に焙り出されることで、十字架と復活の真理が示されています。しかし、ここでは、その十字架と復活の真理は究明されていますが、人々の責任は追及されていません。「あなたがたが十字架につけて殺したイエス」と告発されながら、その責任は問われていないのです。すなわちイスラエルの全家が、はっきり知らなくてはならないことは、十字架の真理であって、彼らが責任を負うことではない。彼らに向けられたのは、責任ではなく、赦しと救いであったのです。そして、これがペンテコステの説教の結論となりました。

改めてもう一度確認しますと、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」、これが福音の要約ではありませんか。ペトロは、彼の思想や哲学を演説したわけではないのです。彼の、そしてイスラエルの全家の面前で行われた神の御業をそのまま語っただけでありました。

 しかし、聴衆に大きな変化が生じ、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか(37節)」と縋ってきた民衆にペトロは回答しました。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。(38節)」、と。

 ここで真っ先に「悔い改めなさい」と勧告されていますことが重要で、福音が宣言された時、最初に罪人に要求されるものは「悔い改めなさい」これなのです。主イエスが、福音宣教を始めたその最初も、福音と「悔い改め」がセットになっています(マルコ1:14、15参照)。そして、悔い改めたそのしるしが、イエス・キリストの名による洗礼であり、その帰結として罪の赦しが宣言される、この図式です。これが、罪人が救われる図式なのです。

しかし、その上で、このペンテコステの勧告におきまして、一つ追加されています。「そうすれば、賜物として聖霊を受けます」これです。悔い改め、イエス・キリストの名による洗礼、そして罪の赦し、この罪人に対する救いの恵みに追加して、ここでその救われた罪人が、賜物として聖霊を受ける、という約束が明確にされたのです。

実は、この「聖霊を受ける」こと、しかも、悔い改め、洗礼、そして罪の赦しとセットで、全ての者に、これが約束されていることが、このペンテコステの勧告の重要なところで、これこそが、本日招きの詞で与えられました、旧約聖書のヨエル書の預言の実現です。「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。(ヨエル3:1、2)」、「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」、これがペンテコステで実現したわけです。

ここでは、文字通り全ての者です。「あなたがたの子供にも」とありますように、子どもたちも招かれています。大人の視点で、まだ一人前になっていないと思われる小さな子どもでさえ、聖霊が与えられる、ということです。幼子に聖霊が与えられるのに早いとか遅いとかはありません。神が与えてくださるのを退けることはできないのです。だから、幼い日から、我が子を礼拝に出席させる、これが非常に重要であり、親の務めなのです。或いは、「遠くにいるすべての人にも」とありますように、地の果てに至るまでもれなく全ての人です。さらに、私たちの立場や状態とは無関係に、「わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも」であります。そうである以上、人の目を気にすることも、自分自身を卑下する必要も一切ありません。そんなのはどうでもよろしい。この世の地位や立場とは無関係に「主が招いてくださる」以上必ず「賜物として聖霊」を与えられるのです。

本日は、「ペンテコステの勧告」という説教題が与えられました。

 「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」、このペンテコステの日に語られた説教の結論は、必然的に私たちにも「ペンテコステの勧告」を与えられるからです。

 そして、それは、このイエスを殺したあなたがたの中に、私たちも含まれているからです。もし含まれていないのでしたら、それはキリスト者ではありません。私たちの生涯にわたる全ての罪のために、神の御子が十字架についてくださった以上、この私が主イエスを十字架に付けて殺したのです。

 大切なのは、主の日ごとに、この主イエスの十字架の前に悔い改めることです。次の節で、説教に砕かれた人々の姿が描かれています。「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。(37節)」、これが神の言葉が語られた時の罪人のあるべき姿です。私たちはどうでしょうか。

 ここで、「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ」、とありますこの「大いに心を打たれ」という字は、新約聖書でここにしか見られない非常に厳しい言葉で、「心を刺し貫かれる」くらいに訳した方が、もともとの意味には近いと思います。今、私たちは、御言葉の説教の前に、心刺し貫かれるほどの悔い改めが与えられていますでしょうか。「私たちが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさった」、この私たちの罪の悲惨さと神の恵みの偉大さに目が開かれているでしょうか。

ペンテコステ礼拝に、記念日的信仰など不要です。必要なのは、御言葉に悔い改めることです。

 心を刺し貫かれるくらいに悔い改めて、十字架の主イエスに立ち帰ることです。