2022年12月25日「クリスマス タイム」
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クリスマス タイム
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- 新井主一 牧師
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マタイによる福音書 1章18節~25節
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聖書の言葉
18節 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
19節 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
20節 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
21節 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
22節 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
23節 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
24節 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、
25節 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
マタイによる福音書 1章18節~25節
メッセージ
説教の要約
「クリスマス タイム」マタイによる福音書1章18節~25節
マタイ福音書は、夫であるヨセフの視点から、主イエスの誕生の場面が描かれています。
この時代男女が結婚する年齢はとても早くて、男子は18歳が適齢期で、20歳を過ぎると晩婚とされていました。女子はもっと早く、当時の規定によれば、適齢期が12歳半とされていました。ですから、恐らくヨセフは18歳くらいの若者、マリアの方は、13歳くらいの少女であった可能性が高いと思われます。そのような状況で、「二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった(18節)」、この現実と向かい合った若いヨセフのショックの大きさは想像を絶します。
そしてこれがいわゆる処女降誕と言われている出来事です。しかし、その説明は、なんと簡潔なのでしょうか。「マリアの胎の子は聖霊によって宿った(20節)」、これが、処女降誕の説明の全てです。
どうしてもっと分かりやすく説明してくれないのでしょうか・・・。それは、わからないからです。
天地を創造された全知全能の神の永遠の御業を、限りある私たちの小さな頭で理解することなどできないのです。つまり、「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」、これは、理解するか否かの問題ではなく、信じるか信じないかの問題であって、被造物である人間の科学の領域ではなくて、創り主である神の領域で行われているからです。ここでも、まるで処女降誕が、当然の出来事であるかのように、あまり重点は置かれていません。むしろ生まれてくる幼児のことがこのメッセージの中心です。特に「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」という天使のメッセージに続いて、イザヤ書が引用され、「その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(23節)」、とこの幼子のことが示されます。
ここで大切なのは、イエスと名付けられた方が、インマヌエルである、ということです。それは、罪から救うからイエスと名付けられた方が、私たちと共におられる、ということだからです。罪から救うわけですから、救われる側は罪人以外ではないはずです。つまり、イエスは罪人の救い主である、それがここで宣言されているのです。
そして、実にイエスは罪人の救い主である、これが、このマタイ福音書で証明されて行くのです。この福音書は、所々で罪人の救いが証言され、それは、この福音書の著者とされているマタイの救いの場面でとりわけ鮮やかに示されています。「ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。(9:11~13)」これです。これが、当時罪人の中の罪人と忌み嫌われた徴税人マタイが救われた場面です。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」、主イエスは、罪人のインマヌエルである、マタイほどこの憐れみに心砕かれた者はいなかったのでしょう。そして、この罪人のインマヌエルである主イエスが最初に紹介されるのが、マタイのクリスマスなのであります。マタイのクリスマスタイム、それは、罪人の救い主誕生の憐れみの宣言であります。
さて、この天使のメッセージを聞いたヨセフのアクションが最後に示されます。
「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。(24、25節)」
このヨセフの姿から二つのことを確認します。
一つ目は、「ヨセフは眠りから覚めると」、とあります、この「覚める」という字は単に目が覚める、という状況ではありません。この字には「立ち上がる」、という意味がまずあって、実は、死者の復活を示す、「復活する」、という聖書的に非常に重要な言葉がこの字であります。ヨセフは眠りから立ち上がった、復活した、まるで死者が復活するかのように、新しい命に歩み出した、とこのように御言葉は言いたいのです。勿論、別にヨセフは死んでいたわけではなく、大工さんとして生き生きと勤しんでいました。しかし、それでも尚その状態から立ち上がったのであります。彼は、しっかりと人生を歩んできた、しかし聖書的にまだ彼は倒れていて、立ち上がって新しい命に生きる必要があった、だから、ここでは「、眠りから覚める」=「復活する」という言葉が使われているのです。
これは全ての人に言えることではないでしょうか。ちゃんと生きている、しっかりと年を重ねて人生を歩んでいるのです。しかし、聖書の言います命に関しては、まだ倒れているのです。
私たちの国の詩の中で人生を「夢」と表現することもあるようです。信長が詠んだことで有名な「人間50年~夢幻の如くなり」、という詩は、人生の儚さをそのまま夢に譬えています。或いは、あの松尾芭蕉が最後に詠んだ句が、「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る 」、これです。私がこの詩に触れる時、この夢と言うのは芭蕉の人生の縮図であって、死の直前に、彼の人生そのものであった旅に明け暮れた日々を回想しているように思えてなりません。人生=夢なのです。
私自身、もう若くないものですから、過去の記憶をたどるようなことがしばしばあります。今年は特に高校生の頃の同級生が教会を訪ねてくださったことから、親しく交流ができるようになりました。それで余計当時のことを思いだすことが多くなりましたが、過ぎた日々がまるで夢のような場面で現れてきます。確かに生きていた時間なのに夢のように現れて消えていく。
これは、多くの方がそうなのではないでしょうか。過ぎた日々がまるで夢のようであって、その夢の積み重ねが人生であった、と。その場合、生涯を終える時は、もはや夢しか残らない・・・。そこから立ち上がる、眠りから覚めて、永遠の命を展望する時、それがこのクリスマスタイムであります。
私たち信仰者には夢(人生)の続きが約束されているのです。罪人の救い主インマヌエルである主イエスは、それを拒まれることは決してありません。クリスマスタイムは、罪人が、インマヌエルである救い主イエスを信じて救われる時であります。その時、私たちの夢に終わりはないのです。
二つ目、最後に、「その子をイエスと名付けた」、とこの記事は終わります。これは、「その子をイエスと名付けなさい(21節)」に対する忠実な回答です。
ヨセフは、「その子をイエスと名付けなさい」と言われた通り、「その子をイエスと名付けた、」と記録してこの主イエスの誕生の記録は終わるのです。実は、この名付けるという字は、もともと呼ぶという意味を持つ言葉です。その子がここでイエスと呼ばれるようになった。これがクリスマスタイムではありませんか。イエスの名を呼ぶのです。その子をイエスと呼びなさいと言われたとおりに、その子をイエスと呼ぶ、すなわち、罪人である私の救い主としてイエスを呼ぶ、これがクリスマスタイムであります。そして、イエスを救い主としてその名を呼ぶところにこそ、平和と永久の命が実現するのであります。私たちの教会はその場所です。