2022年12月11日「御顔こそ、わが救い」
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御顔こそ、わが救い
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
詩編 42章2節~12節
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聖書の言葉
2節 涸れた谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める。
3節 神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て 神の御顔を仰ぐことができるのか。
4節 昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う「お前の神はどこにいる」と。
5節 わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす 喜び歌い感謝をささげる声の中を 祭りに集う人の群れと共に進み 神の家に入り、ひれ伏したことを。
6節 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう「御顔こそ、わたしの救い」と。
7節 わたしの神よ。わたしの魂はうなだれて、あなたを思い起こす。ヨルダンの地から、ヘルモンとミザルの山から
8節 あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて 深淵は深淵に呼ばわり 砕け散るあなたの波はわたしを越えて行く。
9節 昼、主は命じて慈しみをわたしに送り 夜、主の歌がわたしと共にある わたしの命の神への祈りが。
10節 わたしの岩、わたしの神に言おう。「なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ 嘆きつつ歩くのか。
11節 わたしを苦しめる者はわたしの骨を砕き 絶え間なく嘲って言う「お前の神はどこにいる」と。
12節 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。
詩編 42章2節~12節
メッセージ
「御顔こそ、わが救い」詩編42:2~12
先週学びました、詩編33編は「神賛美の詩」でありましたが、本日与えられましたこの詩編42編は「嘆きの詩」と言えまして、バビロン捕囚の直後の混乱期に詠まれた詩であると思われます。
この詩編は、まず「涸れた谷に鹿が水を求めるように(1節)」と始まります。パレスチナの気候は、乾期と雨期で分かれていまして、乾期がやってきますと多くの川が干上がり、涸れた谷と言える場所が、所々に現れます。当然、鹿のような動物は、水がないと生きていけませんので、「涸れた谷に鹿が水を求める」、ここには生きるか死ぬかの問題があるわけです。それと同じように、「神よ、わたしの魂はあなたを求める。」、とこの信仰者は謳うのです。つまり、鹿が水なしでは生きていけないように、この詩人も神様がいなければ生きていけない、このことを告白してこの詩編は始まるのです。
そして、それは、「いつ御前に出て 神の御顔を仰ぐことができるのか(3節)」、つまり、捕囚の中にあって礼拝を献げることが出来ないこと、さらに、「お前の神はどこにいる(4節)」と嘲られる現実によって明らかにされます。では、どうして「お前の神はどこにいる」と周りの人はからかうのでしょうか。それは彼らにはちゃんと神がいるからです。目に見えない神にひたすら従う者は、目に見える神に従う者たちにとっては嘲りの対象とされるのです。目に見える神は全て偶像です。お金であったり、この世の地位や立場であったり。しかし、その目に見える神に従っている者は繫栄していて、目に見えない神に従っている愚直な信仰者は、没落している、だから冷やかされるのです。
その悲しみの中にあってこの信仰者は、「わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす。喜び歌い感謝をささげる声の中を祭りに集う人の群れと共に進み神の家に入り、ひれ伏したことを。(5節)」、と過去の栄華を追憶します。しかしその直後、「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。(6節)」と自問自答します。過去の栄華を思い返した時、彼のその魂はうなだれたのです。つまり、過去の喜びは現在の足しにはならない、ということです。いくら素晴らしい過去を持っていても、それは今を生きるためにはあまり役に立たない、かえってうなだれてしまう、その程度のものではないでしょうか。
しかし、何もかも失った時、この信仰者には、それでも尚、今を生きる希望は残されていたのです。それが、「神を待ち望め」、これであります。生きていく場所を奪われ、周りからは嘲られ、客観的に言えば、この信仰者の神は今おられない状況でした。信仰者のくせに神不在なのです。
しかし、神不在と思われるその現実の中で、神を待ち望むのが、真の信仰者であり、そしてその信仰は、「あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて 深淵は深淵に呼ばわり 砕け散るあなたの波はわたしを越えて行く。(8節)」、この死の景色を見ながら、「昼、主は命じて慈しみをわたしに送り 夜、主の歌がわたしと共にある わたしの命の神への祈りが。(9節)」、と謳う信仰です。
この大転換は、この詩編を謳った信仰者が実際に見た信仰の風景であったのでしょう。「激流のとどろき」、そして、「砕け散るあなたの波」、と彼は、死の危機にさらされた。しかし、その最も危険な状況で神の存在を確信していたのです。いいえ、そのような状況にあって初めて信仰の何たるかを見出したのです。実は、私たち人間は、自らのその意志で信仰をによって神に頼ることは出来ないのです。そんなに神様に対して敏感な者はいないのです。すべての者が神に対して鈍感である。だから罪人なのです。ですから、神に頼るのは、苦難や悲しみで心砕かれた時、死の現実に目を向けた時、そう言う時です。実は、信仰の構造は、とっても単純なのだと思います。神様がいなければ生きていけないから、神様に頼るのではありませんか。そうでなければ信仰などいらないからです。ですから、実にこの大転換に信仰の本質がある、と申し上げてもよろしいでしょう。
この詩編は、神不在がテーマでありながら、本文中に神、或いは主という字が13回も繰り返されます。神がおられないと嘆く時、「お前の神はどこにいる」とあざ笑われる時、或いは、神なんかいるものか、と肩を落とすこの世にあって、いよいよ私どもは神の名を呼ぶのです。何度も何度も。
しかし、それでも尚「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか(12節)」と御言葉が繰り返し謳います時、やはり「うなだれる」のであります。そして「呻く」のです。それが信仰の歩みなのです。このような残念な姿、弱々しい姿が、信仰生活なのです。しかし、それでも「わたしはなお、告白しよう(=直訳・ほめたたえよう)(12節)」と続きますように、そこでも「なお」、私たちは神をほめたたえるのです。そして、それは、「御顔こそ、我が救い(12節)」だからです。ここにも大転換があります。
神が不在であるから、わたしの魂は、うなだれ、そして呻くのです。神が不在であるから、「お前の神はどこにいる」とあざ笑われるのです。しかし、その状況にあって、「御顔こそ、我が救い」と御言葉は言うのです。御顔と言うのは、文字通り神の顔であり、「御顔こそ、我が救い」、これは、神と面と向かって初めて実現する状況です。神が不在で、その名を呼びもとめるのが精一杯であるのにも関わらず、「御顔こそ、我が救い」、と言ってはばからない、それはどうしてでしょうか。
それを支えているのが、「昼、主は命じて慈しみをわたしに送り 夜、主の歌がわたしと共にある わたしの命の神への祈りが。(9節)」この信仰なのです。昼に夜に、この信仰者は神との関係で生かされていた、神不在と思われる現実の中で、彼は、御顔を仰いでいたのです。「主は命じて慈しみをわたしに送り」、この「慈しみ」という字は、ヘブライ語で「חֵסֵד(ヘセド)」と書きまして、これは変わらぬ神の真実な愛を意味する旧約聖書でこれ以上ない大切な言葉です。この愛は、神の契約に基づく一方的な愛であり、この「חֵסֵד(ヘセド)」が新約聖書の神の愛でありますアガペーへとさらにその姿を明確にしていくのです。そしてその頂点にイエスキリストの十字架があるわけです。
周りの状況は目まぐるしく変わり、「激流はとどろき、波はわたしを越えて行く」、「お前の神はどこにいる」とあざ笑われるのに、この私自身も全く頼りにならない。その状況に、「うなだれ、呻いて、嘆きつつ歩く」のです。周りも私も激変する、これが現実です。しかし、神は変わらない。日ごとに、主は命じて慈しみをわたしに送ってくださる、この世が変わろうが、私が変わろうが、この神の愛は変わらない。だから、「御顔こそ、わたしの救い」と」、神の御顔を信仰の目で仰ぐことが出来るのです。
もう一つ「夜、主の歌がわたしと共にある わたしの命の神への祈りが」、ここにも、神不在と思われる現実の中で、御顔を仰ぐ信仰者の姿があります。ここで大切なのは、「主の歌がわたしと共にある わたしの命の神への祈りが」、とこのように、歌と祈りが同義的に言い換えられている、これなのです。歌=祈り、これが詩編なのです。詩編におきまして賛美と祈りは一体的なのです。実は、ヘブライ語で祈りは、תְּפִלָּה(テファリー)という字で、詩はתְּהִלָּה(テファラー)という字を書きまして、このתְּהִלָּה(テファラー)が複数形になると詩編なのです。語源が同じであるばかりではなく、発音が違うだけで、スペルは同じ、それがヘブライ語の祈りと賛美との関係なのです。両者は一体的であるゆえに、最悪の状況で尚、「御顔こそ、わが救い」と謳うことが許されるのです。賛美のある祈りは、天に上るかぐわしい香りのようです。祈りのある賛美こそ、このアドベントの暗闇に響き渡るでしょう。