2020年06月28日「パウロの弁明Ⅳ-弁明で示された真理」

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パウロの弁明Ⅳ-弁明で示された真理

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
使徒言行録 22章17節~22節

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「さて、わたしはエルサレムに帰って来て、神殿で祈っていたとき、我を忘れた状態になり、 主にお会いしたのです。主は言われました。『急げ。すぐエルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々が受け入れないからである。』 わたしは申しました。『主よ、わたしが会堂から会堂へと回って、あなたを信じる者を投獄したり、鞭で打ちたたいたりしていたことを、この人々は知っています。 また、あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのです。』 すると、主は言われました。『行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。』」 パウロの話をここまで聞いた人々は、声を張り上げて言った。「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしてはおけない。」 使徒言行録 22章17節~22節

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説教の要約「パウロの弁明Ⅳ-弁明で示された真理」使徒言行録22:17~22

私たちは、使徒言行録から、今パウロの弁明の場面を続けて学んでいます。今日はその4回目で、パウロの弁明の記事の最終回です。ここでパウロは、回心後エルサレムに戻った時の神殿での出来事を証言します。「主にお会いしたのです。主は言われました。『急げ。すぐエルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々が受け入れないからである。』(18節)」

先週は、ダマスコにいたアナニアが、「律法に従って生活する信仰深い人で(12節)」あったにもかかわらず、キリスト者であった、という事実を通して、パウロの福音宣教の中心である主イエスへの信仰が律法と矛盾しないことを示しました。そして、今度は、この場所、すなわち神殿を「無視することを教えている(21:28)」、という彼らの主張に真っ向から反論しているのです。パウロは、神殿を無視するどころか、神殿で祈っているのです。しかも、その時、彼らの主であるイスラエルの神が、他の誰でもなくパウロに現れた、と証言しているのです。

そればかりか、このイスラエルの神主が、『急げ。すぐエルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々が受け入れないからである。』、このようにパウロに命じた、ここまで言うわけです。

もはやこれは弁明ではありません。パウロは、自分の無罪を主張したり、釈明しているのではなく、むしろ彼に牙をむくユダヤ人たちに対して一歩も譲らずに反論しているのです。

そのうえで、過去のこのエルサレム神殿での主なる神が、パウロに現れた時のパウロの回答が示されています。「わたしは申しました。『主よ、わたしが会堂から会堂へと回って、あなたを信じる者を投獄したり、鞭で打ちたたいたりしていたことを、この人々は知っています。また、あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのです。(19、20節)』

主なる神は、パウロに、「すぐエルサレムから出て行け」と言われたのですが、パウロは、反論して「エルサレムから出ていきたくない」、と言いたいのです。それは、エルサレムの人々が迫害者であるパウロをよく知っていて、そのパウロが主イエスに出会い、間違っていたことを知り、回心した事実をエルサレムで証言すれば、非常に説得力があるとパウロは思ったのです。

パウロは、同胞であるユダヤ人を愛していて、一人でも多く救いたかったからです。

しかし、「すると、主は言われました。『行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。』(21節)」、このように、パウロの要求は一蹴されました。

ここで大切なのは、パウロの願いと主なる神の御心が全く違っていた、という事実です。しかも、パウロは、神殿で祈っていたのです。祈りとは、自分の願いを神に押し付けるのではないということです。そうではなく、神の御心が与えられる、むしろ自分の願とは逆の道も示される、ということです。パウロは、回心してダマスコで3年間伝道し、エルサレムに帰り、いよいよこれから、本丸といえる神の都であるエルサレム伝道を始めるために祈って最後の備えをしていた。しかし、それとはまったく違う道が示された、ということです。

 さて、パウロは、さらに証を続けるつもりであったはずですが、聴衆であるユダヤの民衆はもはや我慢の限界で、パウロの弁明を中断させ、「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしてはおけない。(22節)」と叫びだしました。

このパウロの弁明は、私たちが想像する以上に、彼らの耳に突き刺さっていたからです。

この弁明に於いてパウロの口から何度も「主」という言葉が出てきました。

 実は、この「主」という言葉自体がユダヤ人にとって非常に耳ざわりな言葉であったはずなのです。しかも、パウロは、ヘブライ語でずっと話してきたのです(21:40)。そして、実は当時ヘブライ語でこの「主」=「היְהוָֹ(ヤーウェ)」という言葉は非常に重たいデリケートな言葉であったのです。

もともとユダヤ人は、モーセの十戒の第3戒に従って、主の御名をみだりに唱えることを禁じていました。これに輪をかけて、紀元前3世紀あたりに登場したギリシャ語訳の70人訳聖書で、レビ記24:16に大変な誤訳がなされました。「主の御名を呪う者は死刑に処せられる。」この部分を70人訳聖書は「主の御名を呼ぶ者は、死刑に処せられる。」とこのように訳してしまったのです。

それ以来、ユダヤ人は「היְהוָֹ(ヤーウェ)」という神の名を発音しなくなり、代わりに「アドナイ」と呼び換えるようになっていました。パウロの時代になりますと、もはや「היְהוָֹ(ヤーウェ)」の正しい発音さえ分からなくなっていたのです。そのような状況で、パウロは、何度も「היְהוָֹ」である「主(アドナイ)」という名を彼らの前で口に出したのです。もうこれだけで、彼らの怒りは収まらなかったはずです。

しかし、さらに決定的にユダヤの民衆を怒らせたのは、この「היְהוָֹ(ヤーウェ)」がイエスである、と彼らの前で証言したことです。ユダヤ人が口に出すのも恐れて発音さえ忘れた、イスラエルの神「主(アドナイ)」が、「ナザレのイエスである(22:8)」、このようにパウロは、証言したのです。

本日は「弁明で示された真理」という説教題が与えられましたが、イスラエルの神、主が、ナザレのイエスである、これこそがこの弁明を通して示された最も大切な真理です。そして、この真理がユダヤ人の怒りを頂点にさせたのです。

やはり、この弁明は釈明のようなものではありませんでした。

弁明は英語ですとディフェンスです。むしろ、これはディフェンスではなくオフェンスであります。パウロは、ちっともディフェンスなどしていないのです。どうしてでしょうか。それは、主イエスを証するのが、最大のディフェンスであることをパウロは知っていたからです。

この弁明で示された最たる真理は、イスラエルの神、主が、イエスキリストである、ということです。そうである以上、イエスキリストこそがわがやぐら、わが強き盾、わが助けではありませんか(詩編46、讃美歌267)。つまりこのパウロの弁明は、やはり弁明であったのです。これは確かに釈明や自己弁護ではなかった。しかし、それでも尚、これは弁明なのです。しかも最も強固な弁明、キリスト証言という弁明であったのです。

イスラエルの古の信仰者は謳いました。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。(詩編46、2)」いつでも、この信仰に立つのが神の民の姿であったはずです。それがいつの間にか、最も大切な主なる神の名を忘れ、発音さえもしなくなった、どうしてでしょうか。それは、イスラエルが形式的信仰に堕落し主なる神が遠くなっていったからです。主を遠ざけて、その名前さえ忘れた、これ以上の形式的信仰がありましょうか。彼らは主に頼らず、身分や神殿の収入に頼っていたのです。

その彼らが遠ざけていた神がこの地上に来られ、彼らの罪をすべて贖い、永遠の命に導いてくださった、それがイエスキリストである。この弁明を通して示されたこと、それはイエスは主である、という最も大切な真理に加えまして、その主イエスが近くにおられる、すなわちインマヌエルである、という恵みであります。十字架の主イエスが主であり、インマヌエルである。この福音の中心を示して、今パウロの弁明という名の福音宣教は閉じられたのです。