2022年09月25日「善にさとく、悪に疎くあれ」

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聖句のアイコン聖書の言葉

17節 兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。
18節 こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。
19節 あなたがたの従順は皆に知られています。だから、わたしはあなたがたのことを喜んでいます。なおその上、善にさとく、悪には疎くあることを望みます。
20節 平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。
ローマの信徒への手紙 16章17節~20節

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説教の要約

「善にさとく、悪に疎くあれ」ローマ書16:17~20

 実は、本日の箇所であります17~20節の部分は、これがなくなっても文章は成り立ちます。むしろ、この部分が文脈の統一性を乱しているようにさえ思われます(16節からそのまま21節に接続した方が余程自然だからです。)。しかし、あえてパウロは、このような文脈の統一性を無視するかたちで、本日の御言葉を書き記したわけです。逆に言えば、どうしてもこれを書かざるを得ない事情があったということです。そしてそれは偽教師への警告でした。ですから、ここで。「こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。(18節)」、と彼らの特徴が示されます。厄介なのは、偽教師たちが、キリスト者のように装うところなのです。

「自分の腹に仕えている」、これは言い換えますと「自分の欲望に仕えている」そう言う意味です。しかも、この「仕えている」、という字は、もともとは「奴隷である」という状態を指します。欲望の奴隷であるのなら、最初からそう言う格好で登場すればまだ可愛いのです。しかし、あたかもキリストの奴隷であるかのように装って、実は欲望の奴隷である、これが厄介なのです。そして、これがサタンの常套手段です(Ⅱコリント書11:13~15参照)。私たちキリスト者が最も警戒しなければならないのは、異教徒や無神論者ではなくて、異端でもないのです。実に、それは、キリスト者なのです。表面的にはキリスト者を装ったサタンの働き手、それを最も警戒しなければならない、これが福音宣教に命をささげたパウロの視点であります(使徒20:29、30参照)。

 また、この偽教師たちが、「へつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いている」とパウロは言います。「へつらいの言葉」、と訳されていますと、おべっかとかゴマすりの類のように思えて、「なーんだ、その手には乗らないぞ」、と思うわけでありますが、どうもこれはただの「へつらいの言葉」ではないようなのです。この「へつらいの言葉」、と訳されている字は、もともとは、「美しい言葉」でありまして、むしろ祝福の言葉、と申し上げたほうがよろしいでしょう。祝福の言葉、つまり時には聖書の言葉まで用いて、「純朴な人々の心を欺いている、」それが偽教師の実態なのです。御言葉が語られたからと言って、安心してはならない、むしろ御言葉まで用いて信仰者を欺くから偽教師なのではありませんか。

 ではどうすればよいのか、それが次の節で記されています(10節)。ここではまず、「あなたがたの従順は皆に知られています」、とパウロは言います。まだローマの信徒たちは偽教師の餌食にはなっていないということです。しかし、それでめでたしめでたしではないのです。むしろ、だから気を付けなければならないのです。実は、サタンのターゲットになるのは、このローマの教会のような群れだからです。サタンは自らの脅威になる教会から攻撃を仕掛けます。

 ですから、「あなたがたの従順は皆に知られています」、とパウロが言います時、それで安心してはならないのです。むしろ警戒しなければならない。「あなたがたの従順は皆に知られています」、という時、それはそのまま「サタンはすぐ近くにいるよ」、ということにもなるからです。必ずサタンが偽教師を使って攻撃してくる、だから、善にさとく、悪には疎くあれ、とその対抗策をパウロは言うわけです。

 この善にさとくのさとくという言葉は、知恵のある、或いは賢い、とも訳すことも出来ます。善については知恵があれ、つまり、あらゆる善いことに通じていなさい、主イエスのお役に立てるために常に思いめぐらしなさい、と言うことです。

 逆に、悪には疎くあれ、こん疎くという字は、単純であるとか無邪気である、そう言う意味、簡単に申し上げれば、悪知恵などいらない、ということです(Ⅰコリント14:20参照)。

しかし、実に、この世はその正反対ではないでしょうか。「善にさとく、悪には疎く」ではなくて、善にはめっぽう疎く、悪知恵ばかりが幅を利かせていく、だから戦争が起こり、差別が止まず、格差社会が生まれるのではありませんか。だから我が国におきましては、政府が反社会的なカルト宗教団体と親密になるのです。さらに、善に疎いその大将が、まさかの事件で暗殺されたことによって、それが明るみにされ、冷や汗をかいて、悪知恵を駆使しながら、ほとぼりが冷めるのを待っているわけです。それでも懲りずに、善に疎く、悪にさとい、という姿は変わらない。だから憲法を無視して国葬など平気で行えるのです。挙句の果てに、先の戦争で、多くの犠牲者、若い命、幼い命、全ての大切な命を奪ってしまった後に与えられた大切な自由を、憲法改悪によって奪おうと企てるのです。

弱い者は虐げられ、強い者が幅を利かす、これはいつの時代も変わっていない。変わって見えるとすれば、このその構造に上塗りをしているだけの話です。しかし、御言葉は、このサタンの支配の終わりを明確にします。

 「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。(20節)」

 「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう」、とパウロが言います時、これと逆の現実が彼の目の前にあるのです。今、サタンが、私たち信仰者の平和を奪っている、パウロの目にはそのように見えていたはずです。

 そして、これはその後2000年のキリスト教の歴史の中で、常に信仰者に与えられて来た現実です。しかし、それにもかかわらずすでに2000年の昔に、「平和の源である神は間もなく」、とパウロは言うのです。この「間もなく」、という字は、速さを表す言葉です。非常に間近に迫っている、そう言う状況を示す言葉なのです。

 しかし、2000年経っても、私たちの見ている景色は同じです。善に疎く、悪知恵ばかりが幅を利かせて世の中は動いている。それでも、その現実の中で、「間もなく」、という信仰に立ち続けるのが私たち信仰者の役割ではありませんか。

 500年前もそうでした。宗教改革の口火を切ったマルティン・ルターは、偽教師に囲まれながら、「神はわがやぐら」を謳い、神の言葉の力に身を委ねました。「わが命も、我が宝も、とらばとりね、神の国は、尚我にあり(讃美歌267‐4)」、とルターはこの「間もなく」、という信仰に立ちました。いつの時代にも求められる信仰はこれではないでしょうか。

 私たちは、善にさとく、悪には疎くあれ、とあらゆるよきことに敏感で、主に仕えて、主イエスのお役に立つために思いめぐらす者でありたい。その時、「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれる」、この御言葉こそが、本当の希望となり、頭上に輝くのではありませんか。パウロもルターもカルヴァンも、すでにこの世を去った改革派教会の信仰者たちも、そこに立ったのであります。「わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。アーメン。」