2022年09月18日「ローマ書のエンドロールⅡ主イエスの共同体」
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ローマ書のエンドロールⅡ主イエスの共同体
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ローマの信徒への手紙 16章8節~16節
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聖書の言葉
8節 主に結ばれている愛するアンプリアトによろしく。
9節 わたしたちの協力者としてキリストに仕えているウルバノ、および、わたしの愛するスタキスによろしく。
10節 真のキリスト信者アペレによろしく。アリストブロ家の人々によろしく。
11節 わたしの同胞ヘロディオンによろしく。ナルキソ家の中で主を信じている人々によろしく。
12節 主のために苦労して働いているトリファイナとトリフォサによろしく。主のために非常に苦労した愛するペルシスによろしく。
13節 主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。
14節 アシンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマス、および彼らと一緒にいる兄弟たちによろしく。
15節 フィロロゴとユリアに、ネレウスとその姉妹、またオリンパ、そして彼らと一緒にいる聖なる者たち一同によろしく。
16節 あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストのすべての教会があなたがたによろしくと言っています。
ローマの信徒への手紙 16章8節~16節
メッセージ
「ローマ書のエンドロールⅡ主イエスの共同体」ローマ書16:8~16
先週も確認しましたように、ローマ書の追伸部分のこの16章1節~16節は、まるで映画の最後に、字幕で流れるあのエンドロールのように目に映ります。本日の御言葉は、このエンドロールの後半部分で、ここでもパウロと深い交わりを持ちながら、主イエスに仕えてきた信仰者が紹介され、それぞれに挨拶が送られます。まずそれぞれの信仰者について簡潔に記したいと思います。
8節「アンプリアト」ローマでは一般的な名前であり、当時皇帝の家の者たちに多かった、という研究があります。そうだとしたら、福音は、皇帝の家の中にまで浸透していたわけです。
9節「ウルバノ」「スタキス」両者とも当時の奴隷に多かった名前であり、ウルバノは、ローマの男性ネーム、スタキスの方は、ギリシアの男性ネームです。十字架の福音の前には、民族であろうが、身分であろうが、そのようなものは問題ではなかったということです。
10節「真のキリスト信者アペレ」、この真のという言葉は、本物である、とか弁えている、そう言う意味が強い言葉で、この字が動詞になった言葉が、ローマ書の最大の分岐点である12章の最初に使われています。「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。(12:2)」、この「わきまえる」、という字が、「真のキリスト信者アペレ」この真のという言葉を動詞にしたものです。つまり、真のキリスト信者と言います時、それは、「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえる」、そう言う信仰者として、勿論多くの欠けを持ちつつもパウロの目には、そのように映っていたのでしょう。
10節「アリストブロ家」、このアリストブロは、あのヘロデ大王の子孫に多かった名前です。さらに11節「ヘロディオン」これは、あのヘロデと語源は同じです。立て続けにヘロデ家を匂わせるような名前に挨拶が送られるところから、これはヘロデ王家の中にも福音が入って行った証ではないかという推測することも可能です。勿論断定はできませんが、ここでも十字架の言葉には、人種や身分など打ち壊して、全ての罪人に悔改めを与える力があることを、思いめぐらさずにはおられません。
11節「ナルキソ家の中で主を信じている人々によろしく」、つまり、ナルキソ家全体が信徒ではなかった、ということです。さらに、筆頭者ナルキソなる人物ではなくて、ナルキソ家の中で主を信じている人々、と言われているところを見ますと、恐らく主人であるナルキソは、信徒ではなくて、その召使や奴隷たちの中に信仰者がいて、彼らにパウロは挨拶を送ったのでありましょう。当時は、家の筆頭者に絶対的な権力がありました。しかし、福音には、そのような社会通念さえも打ち破って、その家を丸ごと悔い改めに導いてしまう、この信仰にパウロが立っていたからでありましょう。
12節「トリファイナ、トリフォサ、ペルシス」、この三名はいずれも女性で、つまりここでは、ずらっと女性の協力者に挨拶が送られているわけです。パウロの同労者であり、福音の奉仕者には、当時の一般的常識であった男女の優劣の差も全く関係なかったわけです。
13節「選ばれた者ルフォス」、昔からこのルフォスが、マルコ福音書で記されている主イエスの十字架を背負ったキレネ人シモンの息子である、と言われてきました。(マルコ15:21参照)その場合、たまたま通りかかったがために、主イエスの十字架を無理やり負わされたキレネ人シモンが、やがて信仰を与えられ、それが息子たちに継承された、という驚くべき神の救いのご計画に光が当てられるのであります。その場合、確かにこのルフォスは、選ばれた者であるとしか言いようがないのです。
その上で、この信徒の交わりの究極的な姿が示されて、ローマ書のエンドロールは終わります。
「あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストのすべての教会があなたがたによろしくと言っています。(16節)」、ここで、「聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい」、とパウロは言います。接吻による挨拶というのは、これ以上ない兄弟愛の表現です。私たちの国では、このような習慣が根付いていませんので、勿論、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしている教会は、ほとんどないでしょう。しかし大切なのは、そのような流儀ではなくて、心です。いくら大げさに口づけをしても、心がそこになかったら、それは無意味です。ユダは、口づけによって、主イエスを裏切りました。ですから、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい、とパウロが言います時、ありたっけの心で、互いに愛し合いなさい、ということです。
注目したいのは、この接吻による挨拶の奨励の直後「キリストのすべての教会があなたがたによろしくと言っています」、とパウロが閉じるところです。ここに、パウロの抱く、キリストの教会のビジョンがあるのではないでしょうか。「聖なる口づけによって互いに挨拶を交わす」、この最高の愛情表現が、全世界の教会で実現する、この偉大な幻です。しかも、このエンドロールには、あらゆる立場の人たちが登場してきました。男と女、王家の家来と奴隷たち、異教徒と信徒、スラム街の慈善家と前科者、ユダヤ人も異邦人も、この立場の違うものたちの中で、最高の愛情表現で信徒の交わりが実現し、そして、それが全世界へと拡大していく、この希望です。このエンドロールには、福音宣教に仕えるパウロの最終的な希望が脈打っているのです。そして、この希望の源にあるのが、キリストなのです。
ギリシア語の本文では、本日の御言葉には、「主に結ばれて」ἐν Κυρίῳ(エン・キュリオー)、或いは「キリストに結ばれて」ἐν Χριστῷ(エン・クリストー)が、多用されています。信徒を紹介するごとに、キリストに結ばれているその現実が示されるのです。両者を合計しますと本日の御言葉では、7回も繰り返され、このエンドロール全体では、実に10回も用いられています。ἐν Κυρίῳとἐν Χριστῷのオンパレードなのです。そして、私たち信仰者がἐν Κυρίῳ(直訳・主の中にある)であるから、あらゆる立場の違いなどは全く問題ではなくなるのです。これがキリストの共同体である教会です。
パウロは、このἐν Κυρίῳ(エン・キュリオー)によって実現するキリストの共同体をガラテヤ書で、実に見事に表現しています。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。(ガラテヤ書3:26~28)」これ以上に、私たちキリスト者の状態を明確に言い表した箇所はないと思います。ここでもἐν Χριστῷ(エン・クリストー)の方が繰り返されています。そして、実にこれが、ローマ書のエンドロールで実現し始めていたのであります。
パウロは、十字架の使徒とか、信仰義認の使徒、とか言われます。確かにそうでしょう。しかし、もっと根本的に申し上げれば、パウロは、ἐν Χριστῷの使徒であります。彼の存在そのものがἐν Χριστῷなのです。信仰の最も大切な確信は、私がἐν Χριστῷである、ということです。私たちが、ἐν Χριστῷである以上、天と地を貫いて、この私の短い生涯も超えて、キリストの共同体の一員であります。私たちの群れですでに天に召された者、これから生まれてくる者、現在教会に仕えている私ども、その全てがἐν Χριστῷであり、神の国のあらゆる祝福を共にするキリストの共同体であります。