2022年09月11日「ローマ書のエンドロールⅠ舞台裏の信仰者たち」
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ローマ書のエンドロールⅠ舞台裏の信仰者たち
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- 新井主一 牧師
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ローマの信徒への手紙 16章1節~7節
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聖書の言葉
1節 ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェベを紹介します。
2節 どうか、聖なる者たちにふさわしく、また、主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ、あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてください。彼女は多くの人々の援助者、特にわたしの援助者です。
3節 キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。
4節 命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。
5節 また、彼らの家に集まる教会の人々にもよろしく伝えてください。わたしの愛するエパイネトによろしく。彼はアジア州でキリストに献げられた初穂です。
6節 あなたがたのために非常に苦労したマリアによろしく。
7節 わたしの同胞で、一緒に捕らわれの身となったことのある、アンドロニコとユニアスによろしく。この二人は使徒たちの中で目立っており、わたしより前にキリストを信じる者になりました。ローマの信徒への手紙 16章1節~7節
メッセージ
「ローマ書のエンドロールⅠ舞台裏の信仰者たち」ローマ書16:1~7
先週でローマ書の本論部分が終わりまして、本日から追伸部分に入って行きます。
このローマ書の16章は、1節から16節までは、まるで映画の最後に、字幕で流れるあのエンドロールのように目に映ります。
まずここで、「わたしたちの姉妹フェベ(1節)」、という女性が紹介されます。
実は、このエンドロールに登場する人物の中で、このフェベだけは、立場が違う、と申し上げてよろしいでしょう。ローマの教会に「主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ」と要請されていることから分かりますように、彼女は、これからローマの教会に向かう、という立場なのです。それ以外の登場人物は、すでにローマの教会に在籍していて、このフェベを迎え入れる側にあるのです。
それは、このフェベという女性が、このローマ書をローマの教会に届ける役割を与えられているからであると思われます。この手紙をフェベに託してあなた方の許に届けるので、どうかよろしくお願いします、とこの追伸部分が始まっているわけなのです。
そして、彼女は、「ケンクレアイの教会の奉仕者でもある」、と紹介されていて、これは、この最初期の教会に早くも女性執事が存在していたことの貴重な証言でもあります。
さらに、「彼女は多くの人々の援助者、特にわたしの援助者です(2節)」、とあります。ここで繰り返されています「援助者」、という言葉は、もともとは「保護者」、という意味でありまして、彼女は、経済的な面でも献身的にパウロを支え、助けて来たのでありましょう。「多くの人々の援助者」、とも言われていますように、フェベは、パウロ以外の多くのキリスト者に対しても、まるで保護者のように面倒を見て、惜しみない支援を続けたのでありましょう。港町は、入れ代わり立ち代わり人が絶えない場所でありまして、社会経済の要所であります。そう言う事情で、何時の時代もその中には、事業に失敗したり、帰る場所を失ったりで、経済的な困難を抱えて動けなくなる人がいるわけです。これが、港町の周辺には、スラム街のような場所が必ず生まれていく大きな理由です。ですから、「彼女は多くの人々の援助者」、意味としては「保護者」、と紹介されます時、恐らくこの女性執事フェベは、そのスラム街の人たちに対する慈善的な活動もしていたのでしょう。そして、「特にわたしの援助者です」、と言ってはばからないパウロは、その貧民を代表するかのように感謝しているわけなのです。
その上で、フェベを受け入れる側のローマの教会に在籍していて、パウロの福音宣教に深く関わった信徒たちに挨拶が送られるのです(3~7節)。しかし、この中で、具体的に情報が与えられているのは、「プリスキラとアキラ(3節)」だけでありまして(使徒言行録18章参照)、それ以外は、ことごとく、ここにしか登場しない無名の信仰者たちです。
しかも、「捕らわれの身となったことのある(7節)」、つまり「元囚人」然り、或いは「スラム街の慈善家」然り、この信仰者リストには、アウトローの香りさえ漂っています。プリスキラとアキラも、時の皇帝とローマの支配に翻弄され、定住地を持たずに、肉体労働をしながら福音に仕えました。私たちは、実にこの描写が、キリスト教そのものであったことを思いださなければならないのではないでしょうか。
今、教会と言いますと、聖人君子の集まりだとか誤解されたり、礼拝はお勉強会であるかのように敬遠されたり、本当の姿がこの世に証されていません。それは、私たちに原因があるのではないでしょうか。教会は罪赦された罪人の集まりであり、礼拝はキリストの宴である、この真の姿を私たち自身がまず取り戻さなければならないと思うのです。
本日の御言葉は、パウロが、わたしたちの姉妹フェベ、と呼ぶ港町ケンクレアイの女性執事の紹介から始まりまして、この女性が、ローマ書を携えてローマの地に向かうので、パウロは最も親しい信仰者にまず挨拶を送った、簡潔に申し上げれば、これが内容です。
すぐる週、説教準備の中、この御言葉が与えられるたびに、ある一人の女性キリスト者を思いだしていました。それは、「西成のマザーテレサ」と呼ばれた女性キリスト者の医師でした。このキリスト者は、大阪の西成区のあいりん地区でホームレスなどの支援活動を行っていた人物でありました。
彼女は、大阪市内にある淀川キリスト教病院に勤務しているときにホームレスの現状を目の当たりにしたのがきっかけで、務めていた病院を退職し、あいりん地区に近い診療所で、医師として働くかたわら、夜回りやホームレス支援活動などを献身的に続けていました。ホームレスからも近隣住民からも大変慕われていましたが、悲しいことに、2009年の11月に船着き場で遺体で発見されました。34歳の若さでした。警察は、早々に自殺と断定し、捜査を打ち切ったのですが、不審な点がいくつも浮上し、遺族や医療関係者からも抗議の声が上がり、ついに国会でも取り上げられ、捜査は自殺から他殺へと切り替わりました。しかし13年たった今でも彼女を殺して遺棄した犯人は捕まっていないのが現状です。警察の初動捜査の怠慢さが招いた結果でありましょう。
当時私は、服飾関係の仕事をしていまして、まだ牧師になる召命は与えられていませんでしたが、キリスト者としてこのニュースに大きな怒りを覚え、胸が締め付けられました。
実は、帰宅して報道ステーションというニュース番組で最初にこの事件を知ったのですが、その中で一人のご年配の女性が、テレビカメラに向かって言っていたことが今でも忘れられないのです。
「あのきれいな先生が、こんな汚い海に飛び込むはずはない」、涙声ではありましたが、はっきりとした声で確信をもって語っていました。全く具体的な証拠にはなりませんが、彼女の自殺があり得ないことの、これ以上ない証言である、と私には響きました。この老婆は、当時は信仰者ではありませんでしたが、この港町で途方に暮れていた時、このキリスト者に助けられたその一人であったのでしょう。この麗しい女性キリスト者は、この老婆の目には、きれいな先生と映っていた。それは。主イエスを証して、真のキリスト教の光を異教の地の暗闇でありますスラム街で輝かせていたからです。
コリントの港町ケンクレアイのスラム街の保護者フェベ、西成のマザーテレサ、どちらも舞台裏の信仰者たちであります。この世は見向きもしないつまらない存在です。その証拠に、警察は、早々に自殺と断定し、重たい腰をあげるまで時間がかかりました。捜査の怠慢を感じて責任を取る者さえおりません。国民の反対を押し切ってまで国葬をあげる元首相に比べれば、人間扱いされているかも疑問です。しかし、神の国では彼女たちほど幸いな者はいないのです。
彼女たちの働きによって、貧しい人に福音が届けられ、真のキリスト教がその姿を現したからであります。大先生が束になっても、彼女たちの働きの足元にも及ばないのではありませんか。
主イエスが再臨される時、そのエンドロールの字幕に紹介されるキリストの協力者は、このような女性たちであると思います。
私たちもまた、舞台裏の信仰者たちであります。ただキリストのお役に立つために、この世ではなく神の国の基準で、私たちに出来ることから祈り求め、福音宣教に仕えていきたいと願います。