2020年06月21日「パウロの弁明Ⅲ-パウロの洗礼」

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パウロの弁明Ⅲ-パウロの洗礼

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
使徒言行録 22章12節~16節

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ダマスコにはアナニアという人がいました。律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人でした。この人がわたしのところに来て、そばに立ってこう言いました。『兄弟サウル、元どおり見えるようになりなさい。』するとそのとき、わたしはその人が見えるようになったのです。アナニアは言いました。『わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです。 今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。』」 使徒言行録 22章12節~16節

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説教の要約「パウロの弁明Ⅲ-パウロの洗礼」使徒言行録22:12~16

私たちは今、パウロの弁明の場面から教えられています。本日はその3回目で、主イエスに出会い、手を引かれて信仰の歩みを始めたパウロが、ダマスコに入った後の出来事が描かれておりまして、ダマスコのキリスト者アナニアの語ったことが中心になって記事が展開していきます。

まずアナニアは、『兄弟サウル、元どおり見えるようになりなさい。』と言います。「するとそのとき、わたしはその人が見えるようになったのです(13節)。」このようにパウロの目は開かれました。実は、この節に本日の御言葉のキーワードともいえます言葉が繰り返し使われています。この「元どおり見えるようになりなさい」、そして、「見えるようになった」、と繰り返される「見える」、という言葉です。

 これは、日本語の訳では見分けがつけませんが、通常頻繁に使われる「見える」とは明らかに区別されています。ギリシャ語で「見える」は、βλέπω(ブレポー)という言葉なのですが、元どおり見えるようになりなさい、とここで使われる「見える」の方は、上を意味するἀνα(アナ)という前置詞が付いた複合動詞であります、ἀναβλέπω(アナブレポー)という言葉が、使われています。つまり「上を見る」というのが本来の意味なのです。ですから、「兄弟サウル、上を見よ」、或いは、「兄弟サウル、天を仰げ」このような訳も可能なのです。 聖書的に目を開くとは、天を仰ぐことで、信仰の目が開かれることなのです。(参照・ルカ9:16、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」18:41)

 使徒言行録におきまして、この言葉はこのパウロの回心の場面にしか使われません。ですから、ここでパウロの信仰の目が開かれた、ということを聖書は強調しているのです。

ダマスコ途上で迫害者一行に主イエスが現れた時、目が見えなくなったのはパウロだけでありました。しかし、見えるようになったのもパウロだけでありました。ほかの者たちは肉の目は見えていましたが、その目は地上に注がれ、天を仰いでいなかったのです。この同行者たちは、地上の道案内は出来ても信仰の道案内は出来なかったのです。彼らは、地上の道案内人として、アナニアの許にパウロを導いて、お役御免、と聖書から消えていったわけです。ですから、その後で、登場したアナニアが信仰の道案内人の役割を与えられるのです。

その信仰の道案内人アナニアは、パウロの選びとその目的を言いました。『わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。(14節)」つまりパウロは、御心を悟っていなかったのです。彼はガマリエル門下の聖書の達人でありました。当時聖書知識においてパウロに並ぶ者が幾人あったでしょう。

今、信仰の道案内を始めたアナニアとて、聖書知識に関してはパウロに劣っていたでしょう。

しかし、それでもパウロは御心を悟っていなかった。それは、主イエスを知らず、その声を聴いていなかったからです。ですから、アナニアが、「あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです」といいます時、神の御心を悟るのは、主イエスを通してである、ということに他なりません。主イエスと無関係に聖書を読んでも調べても神の御心は何一つ悟れないのです。言い換えれば聖書とはキリストの声、キリストの言葉なのです。

これが次の節でさらに補強されます。「あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです。(15節)」パウロが見聞きしたこと、これは、パウロが日常の中で与えられた出来事ではなく、神の啓示で、「見聞きしたこと」、言い換えれば、今までパウロが熱心に学んできた聖書全体のことである、ととらえるべきでありましょう。

彼は神の啓示である聖書を熱心に学んできました、身を粉にして勤勉に神の言葉に向き合ってきました。そこで、見聞きしたこと、つまり聖書全体について、「すべての人に対して」キリストの「証人となる者」、それがパウロである、というわけです。つまり、今までキリストと無関係に聖書から見聞きしていたことをその口からの声、すなわちキリストによって再解釈して、キリストの証人となれ、ということです。

これは、パウロにとってこれ以上ない憐れみであったのではないでしょうか。彼が幼いころから勤勉に積み重ねていた聖書知識が無駄にならず、むしろ神に用いられるからです。聖書を知っていながら、神の御心を悟らず、そればかりか、本当の神の民であるキリスト者を殺すことさえした。それなのに、用いられるのです。

パウロは、死の直前愛弟子であるテモテに書き送った手紙で、この神の憐れみを思い出しています。パウロの遺言ともいえるあの言葉、「われ罪人の頭なり」、と言い切る少し前のところです。

 「わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。(Ⅰテモテ1:12、13)」

主イエスは、どうして、パウロを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったのですか。パウロが何か主イエスのために働いたからですか。いいえ、「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者」であったにもかかわらず、主イエスは、パウロを「忠実な者と見なして」くださったのです。これが主イエスの憐れみです。「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」と主イエスに問われた教会の迫害者であった頃のパウロのその間違った熱心ささえも主イエスは目を注ぎ、認めてくださっていたのです。そして、それを許し、むしろご自身のために用いてくださったということです。何という憐れみでしょうか。

パウロは死ぬまでこの憐れみを忘れることは出来なかったのでしょう。

「われ罪人の頭なり」とは、この憐れみに砕かれ、この憐れみに立った信仰者の叫びです。

本日は「パウロの弁明Ⅲ‐パウロの洗礼」という説教題が与えられました。最後の16節「今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。」これがパウロの洗礼です。ここで、「今、何をためらっているのです」、とアナニアは、言いました。

 このためらう、という言葉は、この訳ですと躊躇するな、くらいの意味にとれます。しかし、ギリシャ語ではもっと面白い表現なのです。ためらう、と訳されている動詞のもともとの意味は、「するつもりである」或いは「目論む」そういう言葉です。ですから「今、するつもりになっていてはだめだ」そういう表現なのです。洗礼は、いつか「するつもり」ではだめだ、ということです。 謙虚な人に限って、自分はまだ早いからとか、自分で自分を評価してふさわしくない、と洗礼の時期を引き延ばしていきます。これが、「するつもり」という姿なのです。しかし、洗礼を受けるのにふさわしい人は一人もおりません。ふさわしくないのに救われるから恵みなのではありませんか。ふさわしいから救われるのなら、それは自然であって、恵みではありません。救われるのにふさわしくないのに、救われてしまう、それが洗礼なのです。洗礼とは、受ける側の自覚や決意によって条件付けられるものではなく、ただ神の恩恵が根拠なのです。

このパウロの洗礼の御言葉が、愛する求道の友の中で立ち上がり、一人も漏れることなく、洗礼に導かれますことを毎日祈り求めております。