2022年08月07日「福音の目的」

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聖句のアイコン聖書の言葉

7節 だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。
8節 わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、
9節 異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、あなたの名をほめ歌おう」と書いてあるとおりです。
10節 また、「異邦人よ、主の民と共に喜べ」と言われ、
11節 更に、「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ」と言われています。」
12節 また、イザヤはこう言っています。「エッサイの根から芽が現れ、異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。」
13節 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。
ローマの信徒への手紙 15章7節~13節

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説教の要約

「福音の目的」ローマ書15:7~13

本日の御言葉で、このローマ書の本論部分が終わります。同時にこの箇所は14章から続いているローマの教会に対する具体的な勧告の結論部分にもなっています。

そして、その勧告の結論と言えるのが、「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。(7節)」この論理です(14:1、3をご参照ください。そこでも、神が受け入れたようにあなた方も受け入れなさい、と同じ論理です)。

ここでは、「キリストがあなたがたを受け入れてくださった」その理由が、「神の栄光のために」、とされていることが大切です。これは、「神の栄光の中に」、とも訳せまして、ギリシア語の本来のニュアンスとしては、私たちが「神の栄光」の中にすっぽりと入ってしまう、さらに言えば、私たちが「神の栄光」になってしまう、そのくらいリアルな表現です。「神の栄光」とは何でしょうか。それは、私たちの想像などはるかに超えた神の国とその全ての宝、勿論永遠の命も含みます。私たちは、愚かな罪人であり、徹底的に無力で貧しく弱い者です。どうやっても、「神の栄光」と釣り合うはずがありません。しかし、「キリストがあなたがたを受け入れてくださった」、この一点で「神の栄光」がいただける身分とされたのです。それに比べて、互いに相手を受け入れることが一体何でしょうか。私たちがいただくものに比べれば、私たちのなすべき勤めのなんと小さいことでしょうか。実にこれこそがパウロの言いたいことであり、神の憐れみと救いの論理なのです。

では、どうして、私たちが「神の栄光」へと入れられるのか、どうして私たちが「神の栄光」と釣り合うのか、それは、「キリストが、神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられた(8節)」からであります。この「割礼ある者たち」と言うのは、神の民イスラエルです。主イエス様は、神の民イスラエルの真の王であって、本来イスラエルの民を治めるべき方でありました。しかし、そのお方が正反対の立場になられた。それが、「割礼ある者たちに仕える者となられた」、ということです。これは主イエスの僕としてのご生涯、十字架の救い主の姿そのものです。

では、神の真実を現すためになされた主イエスの僕としてのご生涯と十字架は、どのような目的を持っていたのか。それが二つ示されます。

一つ目が、「それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり(8節)」これです。この「先祖たち」、というのは、アブラハムを筆頭としたイスラエルの信仰者たちで、つまり、「先祖たちに対する約束」、これは古い契約、すなわち旧約と言い換えることも出来ましょう。旧約聖書で繰り返しなされた神の約束が「確証されるため」、これが主イエスの僕としてのご生涯と十字架の一つ目の目的であった、とこのように御言葉は言うのです。それによって、「神の真実」が実現したのです。

 さらに二つ目が「異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。(9節)」これです。一つ目の目的の対象者が神の民イスラエルであったのに対して、この2つ目の目的の対象者は、異邦人になっています。主イエスの僕としてのご生涯と十字架によって実現した救いは、神の民イスラエルだけでなく、全ての人々に向けられた、ということです。民族や身分、性別、そのようなものとは無関係に、全ての人が主イエスに対する信仰によって罪赦され永久の命に与る、これがこのローマ書の福音の中心にあります「信仰義認」です。ですから、「異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。」、これは、信仰義認によってもたらされる賛美であり、これが主イエスの僕としての罪なきご生涯と十字架の目的であったのです。そして、神の民イスラエルに向けられた一つ目の目的が、旧約時代に謳われた「神の真実」であるとするならば、異邦人に向けられたこの二つ目の目的は、新約時代が謳う「神の真実」と言えましょう。つまり、旧新両約聖書全体の「神の真実」が、主イエスによって実現した、それが、主イエスの僕としてのご生涯と十字架の目的であった、とパウロは言うのです。これこそがキリスト教であり、パウロ神学の、そしてローマ書の結論ともいえましょう。そしてこの旧新両約聖書全体の「神の真実」が、主イエスによって実現した、その証拠聖句が、9節後半から12節までで旧約聖書の引用によってリストアップされ、パウロは繰り返し、全聖書の「神の真実」が、主イエスによって実現したことを御言葉によって実証しているのです。

 しかし、それはあくまでも信仰の目で確認しているのでありまして、この世的には、迫害と貧困、裏切りや敵意、とあらゆる困難にあえいでいた、それがパウロの目の前の現実でありました。

 それゆえに最後はこのように結論付けます。「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。(13節)」ここで大切なのは希望なのです。一般的に、肯定的な感情は、安全で充足している時に生まれてくるものです。しかし、希望は逆境においても私たちをポジティブな立場に立たせるのです。そして、私たちの神は、「希望の源である神」である、とパウロが言います時、その神は、逆境においてこそ、私どもにその本来の姿を現してくださる神である、ということです。先週の御言葉では、同じ神が「忍耐と慰めの源である神(5節)」、と謳われていました。つまり、私どもの神は、「忍耐と慰めと希望の源である神」である、ということです。そうである以上、私たちがどのような惨めな状況にありましても、私たちが「神の栄光」の中にすっぽりと入ってしまう、私たちが「神の栄光」になってしまう、この身分は全く変わらないのであります。これが、パウロの信仰そのものであったわけです。

 それゆえ、その信仰に立ってパウロは頌栄を謳いあげます。「信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」、ここでは、満たす、という言葉が繰り返されています。これらは、満ち溢れる、というよりは、あり余る、或いは溢れて零れだす、という状態、つまり与えられる「喜びと平和」そして「希望」が大きすぎて、私たちのキャパシティーでは全然追いつかない、そのくらいの状況です。信仰者である私たちは、八方塞がりであっても、二進も三進もいかなくても、私たちのキャパをはるかに超えた天からの祝福が注がれているのです。しかし、それは私たちの小さな器には、あまりにも多すぎる。ではどうすればよいのか。そこに賛美が生まれるのです。「信仰によって」そして、「聖霊の力によって」与えられる「喜びと平和」そして「希望」が大きすぎて、それが口から零れる、歓喜の叫びとなる、これが神賛美なのです。そして、この私たちの歓喜の叫び、神賛美これこそが、福音の目的ではありませんか。神の国が実現し、世界全体に神賛美が響き渡る、これが福音宣教の目的です。

 本日の御言葉では、何度も賛美を意味する言葉が使われています。世界全体が、被造物全体が、神を賛美する、神賛美が鳴りやまない、ここではこの神の国の実現、神賛美のシンフォニーが描かれているのです。これが福音の目的です。福音の大きさは、小さい私たちには全く釣り合わないのです。私たちは、この溢れんばかりのこの十字架の愛と恩恵を、この福音を精一杯の賛美をもって、響かせようではありませんか。