2022年07月30日「聖書の役割」

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聖句のアイコン聖書の言葉

4節 かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。
5節 忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、
6節 心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。
ローマの信徒への手紙 15章4節~6節

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説教の要約

「聖書の役割」ローマ書15:4~6

本日の御言葉は、「かつて書かれた事柄は」、と始まります。これは、直接的には、一つ前の節で、パウロが引用した、「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」、この詩編69編のダビデの詩であります。しかし、パウロは、この詩編だけを指して、「かつて書かれた事柄」、と言っているのではありません。もしそうであるのなら、「すべてわたしたちを教え導くためのものです」、この「すべて」、は全く余計です。先週も確認いたしましたように、この詩編がメシア詩編で、イエスキリストによって御言葉が実現したことを証明するためにパウロは引用したわけです。

 実は、このパウロの聖書引用の方法が非常に大切でありまして、つまり「かつて書かれた事柄」、と言うのは、聖書全体、パウロの時代ですとまだ新約聖書は存在していませんから、旧約聖書全体と申し上げてよろしいでしょう。その旧約聖書全体から、キリストによって実現した一つ一つの事実が、すべてわたしたちを教え導くためのものである、とこのようにパウロは言うのです。

 つまり言い換えれば、旧約聖書をキリストによって解釈することが、私たちを教え導くことになる、ということで、実にこれこそがキリスト教の聖書解釈の原則です。ここでパウロは、私たちの聖書解釈の原則を謳っているわけなのです。名のある聖書学者でありましても、キリストと無関係に聖書を解釈するのであれば、どんなに素晴らしい研究となりましても、それが私たちを教え導くことにはならない。

 聖書を読み解き、理解するためのたった一つのカギ、それがイエスキリストだからです。

 実際これは、主イエスご自身が言われていることでもあるのです。

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。(ヨハネ5:39)」

聖書はイエスキリストを証するものであり、イエスキリストから目を逸らした聖書研究は、結局、救いや命には至らないのです。とりわけ、私たちを教え導くために語られる御言葉の説教は、どの聖書個所が与えられても、イエスキリストが中心におられなければなりません。説教の良し悪しを分けるものは、与えられた御言葉から十字架のキリストが描き出されるか、否か、まずこれであります。どんなに理路整然とした美しい説教であっても、面白い語りであっても、イエスキリストがそこに現れないのなら、何の値打ちもありませんし、むしろ害悪でさえあります。

本日は、「聖書の役割」という説教題が与えられました。この聖書個所の全ての節で、繰り返し聖書の役割が示されているからです。

 その一つ目は、「わたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができる(4節)」、これです。ここでは、忍耐、慰め、希望、という聖書的に非常に大切な言葉が使われていまして、このうち一つでも欠けてしまうと、キリスト教信仰はその命を失ってしまう、と申し上げてもよろしいでしょう。私たちは、キリストの十字架によって既に罪赦され、救いと永遠の命が確定しています。しかし、他方、それはキリストの日が来るまでは、まだ完全には実現していないことも事実です。すなわち、私たちの信仰生活は、救いと永遠の命について、すでに確定しているが、未だ実現していない、この「すでに」、と「未だ」、常にこの両者の緊張関係にあるわけです。そして、実はこの信仰生活の「すでに」、と「未だ」、の橋渡しをするものが、忍耐と慰めと希望なのです(ローマ書8:23~25とⅡコリント1:6~7を参照ください。)。

 二つ目は、「あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ(5節)」、とある通りです。聖書は、私たちにキリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせるために機能しているのです。ここで、「キリスト・イエスに倣って」、とあります。これは、神の御子でありながらへりくだって歩んでくださった主イエスです(フィリピ2:6~8参照)。福音が私たちに提供する主イエスは、飼い葉桶に生まれ、罪人に仕え、十字架で殺された神の御子であります。私たちが、この十字架の主イエスによって一つになること、これが聖書の役割であります。つまりこれはそのまま教会を建てることです。あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせる、という聖書の役割は必然的に教会を生み出し、教会を築き上げるのです。

 さらに三つ目は、「心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。(6節)」、この一体的な神賛美です。

ここで、「心を合わせ」、と訳されています言葉は、新約聖書で11回使われているのですが、そのうち10回は使徒言行録で使われていまして、その残りの一つがここに出てくるのです。使徒言行録で繰り返し用いられているところからも、この心を合わせ、という信仰者の姿が、生まれて間もない最初期の教会を象徴するものであったことが分かります。

 さらに、「声をそろえて」、と訳されています部分は、直訳しますと「一つの口によって」という面白い表現です。信仰の世界におきまして、教会はこれほどまでに一体的なのです。そして、心を合わせて、一つの口によって、神を讃える、この一体的な神賛美が実現される、これが聖書の最終的な役割です。神の言葉は、最終的に神賛美を引き起こす。しかも、まるで一つの口が、同じ神を賛美するかのような大胆で力強い、調和のとれた、一体的な神賛美なのです。

 私たちはそれぞれ召されて救われた道筋は違います。或いは、生まれも育ちも、年齢や性別や職業もバラバラです。しかし、神の御言葉は、それさえを一つにまとめてしまう、その圧倒的な力を持っているのです。そして、必ずその中心にイエスキリストがおられる。聖書は、主イエスによって私たちを一つにし、成長の恵みを豊かに与えてくれるのです。

 先週教会の庭にようやく咲いた向日葵を、嬉しくて時間も忘れてしばらく眺めていました。向日葵は、まるで太陽から目を離さないかのように、太陽を追いかけて成長していくようです。それは、主なる神様にそのように創造されたからでありましょう。向日葵の花言葉は「あなただけ見つめる」であるようです。私たち人間も向日葵が太陽を追いかけて成長するように、主なる神様を追いかけて、主なる神さまと共に歩むように創造されました。ところが、私たち人間は罪を犯し、堕落し、神様から目を逸らし、うつむいて生きる者となってしまいました(創世記3:8参照)。それはまるで、花を咲かすことのできなくなった向日葵のようです。その私たちが、十字架の主イエスの愛を受けて、再び神を仰ぎ、神から目を離さないように成長していく、そのために私たちに与えられたのが神の言葉、聖書であります。聖書の最たる役割は、イエスキリストから目を離させないことではありませんか。私たちは、すぐに主イエスから目を逸らし、この世と自分の姿ばかり気にしている。そこには救いは見つかりません。

 私たちのために十字架で殺され、復活された主イエスキリスト、このお方から目を離さない、その時だけ、私たちの救いの確信は揺らがないのです。